「達夫! 達夫、何か言うてくれ!」
《俺、ものすごう苦しい。息が出来へん――》
「公衆電話やろ、ドアを開けて深呼吸したらええんや! ドアを開けろ! 空気なんかなんぼでもあるやないか、深呼吸しろ! 考えるな、もう考えるな、お願いや――」胸の詰まるようなラスト近くの一場面である。もうこれだけで、「【照柿】、読んでよかったなぁ」と思える。
正直なところ、暑苦しい小説ではある。
夏の盛りに、合田雄一郎刑事は美保子という女と出会う。美保子は人妻だが、野田達夫という男と関係をもっている。野田は合田の幼なじみで、2人の男は美保子をめぐって嫉妬の嵐に巻き込まれる。
うう……暑い。
この美保子がまた暑苦しい女で、家庭に問題があり、目がギラギラして淫乱である。悩みを相談できる女友達は少なそうだ。そもそも誰かに何かを相談する気がないんだろうな。かといって自分ひとりで問題を解決できるわけもなく、ただ頭の中で自分の思いを煮つめて煮つめて煮つめて、あげくの果てに暴発する。
達夫に頼っているように見えて、「いいわ。大丈夫よ」と言ってしまえる冷淡さもあって、じつは少しも大丈夫ではなくて……そんな感じが男の目には「はかなげな女」と映るのだろうか。
さらに暑苦しさを増長するのは、野田の勤め先がベアリングなどを作る工場だということ。
野田は職長として、930度という高温の炉と、従業員たちの働きぶりを朝から晩まで監視している。上層部からは生産調整とか人員削減とか難問を投げかけられ、作業効率を上げたいのに装置が古かったり、生意気な従業員がつっかかってきたりと、暑苦しい中で、そこらじゅう頭痛の種だらけなのである。
そんな中、野田の実家の父が死んだ。遺産をめぐる親族との揉め事にうんざりして、美保子との関係に一時の安らぎを見いだす気持ちはわからないでもない。
野田と美保子が銀座でデートする場面は、むしろ可愛らしいとさえ思える。たぶん2人の関係がいずれ終わることは、当人たちもわかっている。もちろん読者にもわかる。可愛らしい分、せつない。
いっぽう合田は、【マークスの山】でこの世に初登場したときは、優秀な刑事で山登りの好きな爽やか青年という印象だったが、本書では裏を返して、
ものすごく粘着質なところを見せる。
前妻の兄・加納祐介との微妙な関係も、【マークスの山】では「山登りの友」といった程度の描かれ方だが、本書では合田自身が「なんでオレが別れた妻の兄貴と仲よくしなきゃいけないんだよ」という疑問を抱きながら、なんとなく関係を断ち切ることもできない。
このあと【レディ・ジョーカー】では、合田と加納の微妙な関係に劇的な変化が訪れるのだが、その話はまた別の機会に。
合田は頭がいいのかバカなのか、本を読んでいると、「あんた刑事のくせにそんなことするのかよ、自分の立場を考えろよ!」と言いたくなる。いや、やっぱり頭はいいんだろう。頭がよくて生真面目で、なんでも物事を突き詰めてしまうのが合田という男だ。もちろん根気づよさ(悪く言えば粘着質)がなければ刑事なんてつとまるもんじゃない。
こういう複雑なキャラクターは妄想キャスティングが難しい。
映画『マークスの山』では中井貴一が、映画『レディ・ジョーカー』では徳重聡が合田を演じたが、どちらも少しずつ違うような気がする。じゃあ誰がいいんだよと問われると、答えられない。
妄想キャスティングはできないが、本を読んでいると合田はちゃんと手足のある人間として、私の脳裏で動いている。
野田達夫については山田辰夫のイメージで最後まで読みきってしまった。
(全国の吉川晃司ファン諸君、山田辰夫さんは吉川晃司のデビュー映画『すかんぴんウォーク』に出演なさったお方です――と書いておかないと最近の吉川ファンには通じないのね〜)

さて合田は警察組織に対していろいろと思うところがあり、加納祐介が言うところの《暗い森》に迷い込んでしまっている。
加納は合田あての手紙に「きみが美保子と相対した時間は合計8分にすぎない」と冷静な言葉をつづる。
はたして人はわずか8分でこんな暑苦しい恋に陥るものかどうか。そこが現実的でないと言われればそんな気もするが、高村薫の
怒涛のスーパーリアリズムの前には、私ごときの些細な疑問など、やすやすと押し流されてしまうのである。
なお私が読んだのは講談社文庫版の【照柿】で、高村先生は文庫化に際して、単行本の【照柿】を全面改稿なさった。
勤勉な高村薫ファンは単行本と文庫本を両方買って読み比べると聞くが、ごめんなさい、私は文庫本だけを読みました。(解説を見ると、「ストーリーの基本は変わっていない」とのことなのでホッとした)
高村先生は文庫化のたびに大幅な改稿をなさる。その理由については「愚作を出したくないんです」とおっしゃっている。先生のお作に「愚作」なんてものがあるとは思えないが、先生の作家としてのたたずまいは、たまらなくカッコいいのである。
先生の最新作【新リア王】は私のようなヘナチョコ読書人には難解な部分もあるけれど、読者に遠慮して易しいものを書くような高村先生など想像したくない。
夢見さん、こんにちは。アメリカのテロの時の合田刑事ですか。どういうふうにテロと合田を絡ませるのか、シロウトの私にはわかりませんけれど、大いに興味はあります。期待を持って待ちたいですね。
yoriさん、こんにちは。急に狂ったり迷ったり、人の心は自分自身でも捉えきれないものなのかもしれませんね。
[2007/02/23 10:57]
ぱんどら
[
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高村薫先生は アメリカのテロの時の合田刑事を描かれたいーと思っておられるとか
どんな形で作品となるのか 楽しみです
TBありがとうございます。
人はある時突然として狂うことがある、
しかしそれは言い換えることが出来るのならば、
人はある時突然として迷うことがある、
と言うことが出来ないでしょうか??
[2006/08/30 22:30]
yori
[
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indi-bookさん、そうですね。状況と結果、ですね。ふつうは「動機」を、怨恨とか物盗りとか痴情のもつれとか、カテゴライズして考えますけど、本来は人間の感情はそんなに簡単なものではありませんよね。
juneさん、トラックバックとコメントをいただいてから私の妄想キャスティングを書きました。やはり合田のキャスティングは難しいです……。
[2006/08/30 11:14]
ぱんどら
[
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>怒涛のスーパーリアリズム
判りますよ、、。
高村作品への批評に、登場人物の行動の
動機付けが弱いというのがありますが、
これは、全て、状況と結果で説明しているわけです。
文庫と単行本の読み比べですが、「李歐」だけ、読み比べましたよ、、。
ぱんどらさん、こんばんわ。
別の企画用に妄想したものがあったので、TBさせていただきました。
(すみません、他の本のも入ってます)
合田ファンなだけに、難しかったのですが、妄想は楽しかったです〜。
でも、なんか永遠の仔が入っちゃってますが・・。
[2006/08/29 20:19]
june
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「粘着質」だけで言えば、中井貴一さんの演技力なら充分すぎるほど表現できると思うし、「真面目な青年」というところだけで言えば、若い徳重聡さんでもいいと思うのですが……
合田の中にはいろいろな要素があって、でも言葉や行動は地味なんですよね。しかも高村薫ファンには「合田ファン」も多いので、みんなが納得するキャスティングは相当に難しいのではないでしょうか。
[2006/08/29 16:52]
ぱんどら
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TBありがとうございます。
野田達夫については山田辰夫のイメージで相違ないと感じました。妄想しても、合田の似合う役者が見当たらないorz
なんででしょうね。やっぱ、粘着質が、でしょうか。
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