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ミラノ、パリ、マウイ、福岡、新宿、上海、韓国など、村上龍の世界各地での「お買い物」をめぐるエッセイ。 「GRAN」(2003年3月号〜2007年4月号)に連載されたエッセイに、書き下ろしを加えて単行本化。 評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 万人に面白いかどうかは定かではないけど、私には面白かったです。 ひところ村上龍の本を読みあさっていました。もろもろの理由から精神的に沈んでいたころで、たまたま買った本が面白くて、それが村上龍でした。 小説ではザックリ斬りつけるようなことを書き、それが不思議に面白く、エッセイでは何となく可愛らしさがあるんですね。「すべての男は消耗品である」なんて構えたようなタイトルがついているけど、内容は女性の話だったり酒の話だったりして。 そういう昔の龍さんの感じが本書には漂っていました。 中身はイタリアでシャツを山ほど買い込んだりする話ばっかりで、まあ自慢話と読めないこともありませんが、私は不快だとは思わないですね。だって昔からこんな感じだもの(笑)。 もちろん請求書の金額を見てへたりこむような買い物は、私には真似できませんけど。 なにせ村上龍ですから、「へたりこみそうになった」と書きながら支払いは滞りなく済ませているに違いない。(支払いに困窮する村上龍なんて想像したくありません) 真似できるとすれば、よけいな飾りのないシンプルな服を買うという点でしょうかね。 私なんか通販でよく服を買うのですが、「いつもシンプルだから少しは飾りもあったほうが……」なんて思って、品物が届いてから後悔することがあります。やっぱりシンプルなものが一番いいんだ。 村上龍も年齢を重ねて少し変わったのかなと思ったのは、本書で「思い出」を書いていたことです。 昔は、テニス、F1、ゴルフ、キューバ、サッカー(順番がこの通りかどうか不確かですが)……と、興味のある物事が変わるたびにエッセイに書かれる内容も変わり、たとえばF1に興味が移ればテニスなんかには見向きもしないというふうに、切り替えが速くて、はっきりしていた。 それが「思い出」をエッセイに書くようになるなんて。なんだか感慨深いです。 
『銀座開化事件帖』改題。 時は明治7年。江戸から東京へと名を変えた街で、ガス管を地中に埋める工事が始まった。しかし掘ったところを夜陰に乗じて埋める嫌がらせが相次いで、作業は遅れ気味。 30歳にして早くも世捨て人のごとく暮らす久保田宗八郎は、兄の頼みで、工事現場を見張る用心棒になった。 ガス工事を指揮する高島嘉右衛門なる人物は、易断によって「宗八郎を銀座に住まわせて工事を見届けさせるべし」との指示を出したという。 宗八郎は釈然としないまま、なじみの女と暮らす家を出て、「若様」こと戸田三郎四郎の洋館を訪ねる。 評価=☆☆ (5つ星が最高点です) 幕末から明治へと変わりゆく街や人の様子が、きめ細やかに描かれています。 巻末の解説に「教養小説」という言葉があって、まさにその通りだと思いました。娯楽として読むには少し厳しい。 久保田宗八郎を主人公とした『幕末あどれさん』、『銀座開化おもかげ草紙』、『果ての花火』と続くシリーズを最初から読んでいるかたは、「よっ待ってました宗八郎!」という気分で楽しめるでしょう。 私のように本書だけ単品で、エンタテインメントのつもりで読むと面食らいます。 すごく思わせぶりな導入部です。 高島嘉右衛門って本当は何者? 易や運勢がどうとかで宗八郎を銀座に住まわせるなんて、何か裏があるんじゃないの? ……と思って最後の1ページまでたどりつきましたが、とくに「裏」らしいものがありませんでした。 高島嘉右衛門って要するに変わり者なんでしょうか。作中にはあまり登場しません。 宗八郎も工事現場の用心棒らしい仕事をするのは最初だけで、あとは何をしているのかよくわからない。まあ嘉右衛門が「宗八郎に工事を最後まで見届けさせよ」と言ったわけですから、とくに何をせずとも現場にいるだけで仕事になるのでしょう。 そんな日々の中で、宗八郎は様々な事件に遭遇し、もと侍の正義感を抑えられず、悪人退治に乗り出すことになります。 なかなか解決しない事件もあって、それへの興味で読者をひっぱろうとする意図は感じられますが、ぼーっと読んでいると、事件のどの部分が未解決なのか、よくわからんのですよ。 事件に関係するのかどうかよくわからない描写がばーっと続いて、肝心なところが埋もれてる、というか。 そんなわけで、ページをめくるのももどかしいほどの激しい興味は湧きませんでしたね。 ちなみに『幕末あどれさん』の久保田宗八郎は、狂言作家に入門したり、官軍将校と喧嘩したりと派手にやってるみたいです。 こちらを先に読むべきだったかも。 
生まれてすぐコインロッカーに遺棄されながら奇跡的に息を吹き返したキクとハシ。巨大なワニを飼う少女アネモネ。 自分の好きなもの、本当に求めるものを探す3人の旅の行方。 私事ですが、精神的にかなり沈んでた一時期があり、なぜか村上春樹と村上龍の本ばかり読んでいました。 ただ【コインロッカー・ベイビーズ】は、さすがに沈んでるときに読むのはキツい気がして、手をつけずに時が流れて現在に至ります。 いまでは芥川賞の選考委員に名を連ねる村上龍さん。気がつけばこういう本が出ておりました。 今回は、この【村上龍自選小説集】のほうを図書館で借りて読んでみましたが、うーん……やっぱり村上龍は凄い。 ただし、これでもかというぐらいにグロテスクな描写が乱発されるのが村上龍ワールドの常であり、万人にお勧めできる本とは言いかねます。 私自身この作品世界を隅々まで理解してはいないし、「大好きな本」とはとても言えない。 だけど勢いがあり、先を読まずにはいられない吸引力がある。結びの一文はものすごくカッコいい。そして何よりも希望の光がある。 心が沈んでいた頃の私が村上龍の作品をあえて自分から求めて読んでいた理由は、グロさを一直線に撃ち抜くレーザー光線のような希望があったからでしょう。 考えてみれば「村上春樹チルドレン」と言われてる作家さんはいても、「村上龍チルドレン」は聞いたことがありません。 村上龍さんみたいな作風って真似しようにも真似できないんじゃないでしょうか。 
身ひとつでアメリカへ渡り苦労の末に大富豪となった「東太郎(あずま・たろう)」。 「美苗(みなえ)」は少女時代にアメリカで大富豪になる前の太郎に会ったことがある。パーティーのような華やかな場を嫌い、口数の少ない太郎は、なぜか美苗の胸に強い印象を残した。 それから長い年月が流れ、美苗はある青年から太郎の消息を聞き、それを小説に書いてみようと思い立つ。 三重構造の入れ子になってます。 まず「美苗」の半生が語られ、その中に登場する青年が「土屋冨美子」という女性に会った話を語り、さらに冨美子が東太郎について語ります。 東太郎とはどんな人物か。 生まれはよくわかりません。義父母のもとで育ち、一家で宇多川家のそばに引っ越しました。昭和30年代の話です。 宇多川家と東家の間には、どう逆立ちしても埋められない明確な格差があります。宇多川家のご主人は医者で、奥さんは三枝家というこれまた裕福な家からお嫁入りした人。夏は軽井沢の別荘で優雅にすごします。 日々の食べものや着るものからして不足ぎみの東家とは全然ちがう。たとえ東太郎が宇多川家の次女よう子に恋心を抱いても、まず結婚なんかは有り得ない。 しかし幼い二人のあいだに恋らしきものが芽生えます。子供だから無邪気に遊んでいるのだろう、結婚とか格差とかそんなものは頭にないだろうと思ったら大間違い。 よう子は太郎よりも絶対的に強い立場にいることを幼心に悟っています。太郎はよう子が自分の前から消えることを出会った瞬間から怖れています。 宇多川家のお手伝いさんの土屋冨美子は、よう子と太郎をはらはらしながら見守ります。 お祭りの夜に二人がケンカをする。よう子はゆかた姿で泣きべそをかき、太郎に土下座しろと命じます。太郎は素直に従う。よう子は下駄をぬいだ片足で太郎の頭を踏みつけようとして、バランスを崩し尻餅をついて、また泣く。太郎はよう子を立たせ、はだしの足を手にとって下駄をはかせます。 そして手をつないで駆けてゆく二人の姿が、満月のもとに透き通るように輝いた――という場面ですが、これは生涯にわたる二人の関係を象徴していると言えましょう。ちょっとSM的なにおいさえ漂います。 いくら家と家との間に格差があるとはいえ、子供たちにこんな上下関係ができるなど、あってはならないことです。そうと頭でわかっていても胸のざわつきが止まらず、本を閉じることができません。 よう子は性格がムチャクチャ悪いです。わがままで驕慢。 太郎は成長すると長身の男前になります。よう子なんか忘れて、いい女を探そうと思えばいくらでも探せるはず。しかし二人を結ぶ糸は切れない。 愛しているから、というよりは、幼い頃から一緒にいて互いの存在を脳の深いところに刷り込まれた感じですね。理屈抜きだから厄介です。二人を結ぶ糸は切れるどころかクモの巣のように他の人間たちをも巻き込んでいきます。 一番の被害者は土屋冨美子だと私は思いますが、彼女自身は自分の人生をあまり不幸だとは思っていないのかもしれません。 よう子との「不始末」が原因で家を飛び出し、よう子と会えなくなって自暴自棄になった太郎を、冨美子は支え、やがて太郎が渡米するきっかけまで作ってやります。 冨美子は太郎を男として見ているのか、それとも単に昔からの知り合いだから人道的な意味で助けたのか。良家のお手伝いさんで慎み深い冨美子は、自身の心の奥にあるものが何なのか、簡単には明かしません。 冨美子の気持ちはともかく、太郎には、いわゆる「ヒモ」になっちゃう男の要素が多分にありますね。 他人が見れば「女に貢がれてるなんてヒモじゃん……へへへへへ」と品のない笑いをもらしたくなる愚かしい状況を「これが幸せなの♪」と女に思わせるのが、優れた(?)ヒモというものでしょう。 お金も学もない太郎ですが、生々しいオスのフェロモンがにおいたつようで、それが女たちの胸をどうしようもなく震わせる。お金がなければアタシが何とかするわ、みたいな気分にさせちゃう。 女が一生お金に困らず、男が一生ヒモの立場に満足していれば、こういう関係って確かに幸せじゃないでしょうか。 しかし太郎はよう子への思慕を消せないし、上昇志向もある。本格的なヒモになる前に渡米し、苦学の末に成功して大金持ちになりました。 一方、よう子は太郎をどう思っていたのか。 太郎のフェロモンに本能レベルではどうしようもなく引きつけられているのに、理性の部分で「ナマ臭くてイヤだ」とか「結婚はできないな〜」とか考えちゃうわけです。しかもそれをハッキリ言葉にして、太郎の心をざっくり傷つけます。 本書の最初のほうにある家系図を見れば分かることだから書きますけど、よう子お嬢様は良家のご子息とご結婚あらせられるのですな。 そのあとにアメリカから帰国した太郎と再会する。よう子は太郎にむかって「いつも不幸だった?」と問うのです。 よう子は太郎と「不始末」を起こした折りに、別れ際があんまり無残だったものだから、自分の行為を反省するのではなく、太郎を恨む方向に走ってしまったわけです。だからといって因縁浅からぬ男と再会しての第一声がこれではね。なんという女だ。 だけど考えてみれば、男が「おまえと別れてからものすご〜く幸せになったよ♪」なんて言い出した日にゃ、てめーこのヤロウってなっちゃうと思いませんか? 少なくとも私はそう思う。まあ心が狭いと言われても仕方ない。 実際に幸せかどうかの問題ではないんです。言われたくて言われたくて仕方のない一言というのが女にはあるんですね。 それを太郎は知ってか知らずか、こう応えます。 ――いつも不幸だったよ。たぶん私は東太郎に恋をしました。 よう子のバカ。あんたみたいな女は嫌いだ。でもあんたの気持ちは私にはよくわかる。 妄想キャスティング。 「東太郎」に長瀬智也。  実のところ、本書については映像化を強く希望しておりません。ヘタに映像化すると、ただの泣きモノ恋愛映画や、安っぽいお昼のメロドラマになりそうな気がします。 そういうものとは一線を画して、格調高く、それでいて見る者の胸をざわつかせる作品を生み出す映像作家のかたがいらっしゃいましたら、お願いいたしたいと存じます。 
女学校を卒業して家事手伝いのちゑ、医学生の壽子、芸者の松太郎と、俳句の会に花を添える美女3人の喜怒哀楽を淡々と描く。 日本語の美しさを堪能できる小説です。 俳句をつくる手順や、句会の作法なんてのも細かく描かれていて、勉強になります。 俳句の心得など全然ない私でも、つい「ちょっと俳句やってみようかな」と思ったりして。 が、ご存じの通り俳句は文字数が限られているし、季語を必ず入れなきゃならない。その条件をふまえたうえで繊細な情感を詠みこめというのだから簡単ではありません。 さらに困るのが毛筆。俳句をつくったら、筆で短冊にさらさらと書いてみたいものですが、悪筆の私には夢のまた夢。 せいぜい私にできるのは、こういう小説を読んで妄想をふくらませることぐらいでございます。 この小説は連作短篇のかたちをとっていて、一篇ごとに視点がちゑになったり壽子になったり松太郎になったりと変わります。 松太郎にすりよってくるスケベオヤジをやっつける話が痛快で面白かったな。やっつけるといっても暴力ではなく、俳句をうまいこと絡めてるんですね。 それと壽子の秘めた恋話。下品ではないけれども、人に見せないところをまさぐられているかのような妖しさがあり、これはちょっと想定外でした。 なかなか面白い本だと思いますが、直木賞候補作として他の作品と比較すると、インパクトは弱かったかもしれませんね。(ちなみに受賞作は 松井今朝子【吉原手引草】) 着物美人の「阿藤ちゑ」には、緒川たまきを妄想キャスティングして読みました。  すみません。緒川さんの和服姿の画像で適当なものが見つけられず……とりあえずお顔だけ載せておきますので、あとは想像してくださいな。
まもなく50代に手が届こうという会社員の「杉井」のもとへ、「加古」の妻の「美須寿(みすず)」が訪れて、「塔屋米花(とうやよねか)」という女性を知っているかと尋ねた。 知っているも何も、杉井と加古と米花は中学の同級生である。 海外に赴任していた加古は、パキスタンで首を吊って死亡した。その一件に米花が関わっているらしいと聞いた杉井の胸に、ずっとしまいこんでいた追憶が蘇る。 「私を月光の東まで追いかけて」という謎めいた言葉を残し、いまは消息の知れない米花を追って、杉井の旅が始まった。 世の多くの殿方は本書をお読みになって、やはり「杉井」に共感するのだろうか? 女の私には「冗談じゃない!」という感じ。月光の東まで追いかけて、だと? 不幸のヒロイン気取りもいいかげんにしろ。……あ、いや、米花は確かに不幸なヒロインだけどね。世間には「得をする美女」と「はずれくじばかり引く美女」がいる。米花は明らかに「はずれくじ美女」だ。 それにしても杉井の行動は腹立たしい。甘い追憶の中の女を追って旅に出るとき、奥さんに何と言い訳したのだろう? もちろん出張だとか何だとか、いろいろ言い方はあるし、奥さんが「いってらっしゃい」と笑顔で送り出しておきながら、内心では「な〜にが出張よ」ぐらいに思っているのかもしれない。 とにかく杉井の旅の動機は「甘い追憶」のみで、友人の死に疑念が生じたわけではない。その件については、ひととおりの調べが済んでいる。 もしかしたら不幸の中にあるかもしれぬ米花を本気で助けよう、などとも考えてはいまい。 米花みたいなタイプの美女は、世の多くの男性にとって重荷なのだ(不幸のフレーバー漂う美女が男心をひきつけることも事実だが)。 杉井は米花に心ひかれても、自分は米花を支えられる男ではないと、おそらく自覚しているだろう。なのに旅に出る。それは一種の自己満足ではないのか。奥さんだって真実を知ったら悲しむぞ。 いっぽう加古の妻である美須寿は、気の毒を絵に描いたようなものだ。夫に自殺された上に他の女の存在を知ったことで心が乱れ、精神科医の治療を受ける。 米花を追いたいのは杉井より美須寿のほうだろう。しかし良い精神科医に出会い、叔父の力添えで職を得て、生活を立て直す。美須寿は気の毒ながら環境には恵まれており、どちらかというと「得をする美女」タイプであろう。 それでも米花のことは気にかかる。だからこそ唐突に杉井の家を訪れ、結果的には杉井の感傷的な旅立ちを後押しするし、美須寿自身もまた米花を知る人から話を聞くことになる。 物語は、杉井が旅先で知る米花の消息と、美須寿が知人から聞き知った米花の話をクロスオーバーさせる形で進む。 だけど最後まで読んでも、米花という女の本質はよく見えなかった。加古と米花との関係も、「月光の東」の意味も、なんだかよく分からない。 まるで解答・解説のついてない問題集みたいだ。 宮本先生の解説をお願いしたいぐらいです。不出来な読者でスミマセン。
『古畑任三郎』などの人気ドラマで知られる脚本家・三谷幸喜さんの仕事を、三谷さんご自身が振り返る本。小学校のお楽しみ会の劇までも含めて掲載。 厳密には「お楽しみ会は仕事じゃないだろ」と言えなくもないが、そこは大目に見よう。三谷さんの原点を探るという意味では、とても興味ぶかいのだから。 ただし近年の作品は『ラヂオの時間』とか『みんなのいえ』あたりまでで、NHK大河ドラマ『新選組!』は載っていない。(これは古本屋で買った本なのです……) 大河ドラマを手がけた後の三谷さんは、一人の役者としてテレビに出る機会が増えたようだ。 JALのコマーシャルだっけ? 客室乗務員(いまスチュワーデスって言わないよね?)の制服を着た若い女優さんと、三谷さんが手をきらきらさせながら踊っていたのは……。 あれを見て、三谷さんはテレビ好きのハイテンションな明るいキャラクターなのだと思い込んでいた。 面白いから嫌いではないけどね。 しかし脚本家がハイテンションと明るさだけで務まるはずはない。作品のすみずみにまで目を配る細やかさが必要だろう。 神経が細やかな分、周りの人々の言動に悩んだり、傷ついたりすることも多いのではないだろうか。 私は一般の視聴者であり読者にすぎなくて、本やドラマにどんな感想をもとうと自由だけど、どんな作品にも作り手の苦労があることを忘れちゃいけない。
松井今朝子の作品は、【似せ者】を読んだきりご無沙汰だった。 江戸時代の歌舞伎役者たちの世界を描いた小説で、墨絵に血の赤を一点、ぎらりと落としたような感触が好きだけど、その「ぎらり」にたどり着くまでが長い。まるで江戸時代の歌舞伎役者の生態を学ぶ教科書を読まされてるような感があった。 そんなわけで、しばらく遠ざかっていた松井作品だが、新聞の書評欄かなにかで本書が紹介されたのを見て食指が動いた。 これは読んで正解。じつに面白い。墨絵に赤を一点なんて生易しいものではない。あざやかな錦絵に毒々しい紅を浴びせるかのような、恐ろしくも美しい物語。 吉原一の名妓と謳われながら突如として姿を消した、花魁(おいらん)の「葛城」。その足取りを一人の男が追う。しかし葛城を知る人々は、そう簡単に真実を話してはくれない。 なにしろ吉原は遊郭である。男と女が化かし合う街である。美しい嘘を楽しむ場所である。 吉原で遊ぶには、それ相応のお金が必要だし、一定のマナーも必要だ。知性も理性も放り出して女を押し倒すだけの男は軽蔑される。 しかし遊女たちはどうか。 いくら相手が裕福な男でも、知性と教養にあふれていても、最終的には肉体労働となることに変わりない。当たり前だが、人気のある遊女ほど労働量は過酷だ。遊女の中でもトップクラスの「花魁」の座に登りつめても、歳をとれば引退を余儀なくされる。運がよければ男に「身請け」されて吉原を去ることもできるが、花魁になる前に身体を壊して生涯を終える女もいる。 そうとわかっていて、遊女にならざるを得ない女たちがいる。 嘘と真実の狭間から見えてくる女たちの姿は、したたかで哀しい。
ものすご〜〜〜〜〜〜〜〜く長いです。しかも2段組。 ものすごく大ざっぱにまとめてしまうと、復讐譚というのかな。 出てくるのはナチスドイツだったり、美声を持つ双子の兄弟だったり。 それと、表紙が2枚に奥付が2枚ついてます。 「なんのこっちゃ」とお思いのかたは読んでみて。 好きな人はとことん好きな作品。 私は今ひとつでした。 けっこう興味をひかれるけど、全体的には「あれっ? うーん……」という感じ。 連休も迫ってますし、お好きな方はごゆっくりお楽しみあれ。
若さとバカさ溢れる大学生たちの青春小説。とても懐かしい感じがする。 大学生だったころの私にとって何よりも大切なものは サークル、アルバイト、恋愛の三つであった。 社会人になると、まぁ会社の先輩・後輩関係は別として、プライベートでは1つや2つの年齢の違いはあまり問題にならない。しかし大学1年のころは、3年生、4年生というと、とてつもなく「大人」に感じられた。先輩の言葉は至上命令であった。 そして年がら年中、サークルの行事に追われていた。コンパがあり、サークル対抗の球技大会があり、学園祭があり、合宿があり、卒業生を送る会があり、新入生の勧誘があった。 私なんかサークルの先輩と付き合っていたから、サークルが大学生活の全てと言っても過言ではない。脳天気でアホな学生であった。 授業がないはずの土曜も日曜もよく出かけた。それは時にデートだったりして、出がけに母親から「どこへ行くの」と問われると、「サークルで、ちょっと。今日は遅くなるから夕飯はいらない」とか何とか応えた。デートのついでに大学へ寄ることもあったから、まぁ嘘と本当が半々といったところ。 校門を入り、部室へ行く通路のそばに大きな桜の木が立っていて、春になると石畳のキャンパスに花吹雪を散らした。 こういう青春小説を読むと、できれば封印しておきたいオバカな記憶の数々が蘇って心おだやかではいられないが、かろうじて正気を保っていられるのは、あのキャンパスに漂っていた春の匂いや光のおかげである。
兄と妹の恋、不倫の恋、思春期の片思いなど、人には話したくない、家族にさえ話せない、話しても誰にもわかってもらえそうにない恋話を描く連作短編集。 水島家のお父さん「重之」には後妻と4人の子供がいる。この後妻、もともとは病気がちの先妻を手伝うため水島家に出入りしていた女性で、先妻の死後、重之と結婚した。つまり水島家には先妻が産んだ子供と、後妻が産んだ子供がいる。 その中の兄と妹が愛し合い、家族は慌てる。二人は引き離され、兄のほうは長いこと水島家に顔を出さなかった。 しかし母が危篤と聞けば無視はできない。かつて愛し合った兄と妹との再会は、当人たちだけでなく水島家の家族ひとりひとりの心に微妙な影を落とす。不倫の恋に破れる者、婚約を破棄する者、離婚届に印鑑を押す者。日常からの逃げ場を求めて畑づくりに精を出す者。そんな彼らの心情は、父親の重之にとっては理解の範囲外だ。 重之は戦争体験者である。復員後はすっかり偏屈な男になった。平和な時代に生まれた子供たちからは「親父の特権意識が鼻もちならない」「頭が固い」などとボロクソに言われる。 こんな重之にも、戦地で出会った従軍慰安婦との秘めた心の交流があったのだ。 重之と女との話は非常に重い。もちろん子供たちの話もそれぞれに問題をはらんでいるが、それらが束になってかかっても敵わない。 「星々の舟」というタイトルから想像する星の姿は、夜空にキラキラと瞬く小さな光である。だが、重之の心は暗い宇宙に浮かぶ質量の大きな星――高密度で重力があまりにも強く、自らの重力で崩壊してブラックホールと化した星のようだ。 このまま小説が終わっちゃったら、ちょっとバランス感が悪いんじゃないかしら――と素人のくせに考えたが、ラストでは兄と妹の禁断の愛に一応のカタがつき、読み手の心に深い余韻を残す。 兄さえも虜にする危ない色香ただよう美貌の女、「水島沙恵」には……井川遥を妄想キャスティング。 私、井川遥を「癒し系」と思ったことは一度もありません。このかたは影のある女を演じるほうが絶対に似合うと思います。  星々の舟 / 村山 由佳
オランダでは1994年に安楽死容認法が施行された。 そのオランダの首都アムステルダムで、小説中の人物が奇妙な死を遂げるのだが、これはミステリー小説とは違うと思う。 じゃあどんなジャンルの小説なんだ、と問われると答えに詰まる。とにかく奇妙な小説としか言いようがない。 レストラン評論家で写真家の「モリー」という女性が、痴呆状態に陥った末に亡くなった。その葬儀には、モリーのかつての恋人たちが集まった。 そのなかに、作曲家の「クライヴ」と、新聞社で編集長をつとめる「ヴァーノン」という男がいた。2人は親友である。 モリーのような死に方をしたくないと考えた男2人は、「もし僕が自分の意思で動けない状態になったら、僕を安楽死させてくれ」と、互いに約束し合う。 そんな折り、モリーの遺品のなかから奇妙な写真3枚が出てきた。 ヴァーノンが編集長をつとめる新聞は発行部数が低迷している。この写真を1面に掲載すれば、窮地を脱することができるし、ろくでもない政治家を失脚させてやれる。 しかしクライヴは掲載に反対する。元恋人であるモリーの遺品をそんな目的で使いたくない。 ヴァーノンとクライヴの意見は対立し、友情関係にヒビが入る。 さて2人の約束はどうなるのか。 レストラン評論家、作曲家、編集長、政治家と、華々しい人生を送る人々が登場するが、その末路は悲惨である。 ……いや、「悲」惨ではないな。惨めだけど、あまり悲しい感じはしない。 ベタベタした読後感が全然ない。 こういう話を、たとえば東野圭吾あたりが小説に書いたら、きっとウェットな感じで、読者を泣かせるものになるんだろうな。 イアン・マキューアンの筆致はものすごくクール。 このまえ読んだ恩田陸の 【夜のピクニック】はホロ苦いチョコレートのようだけど、こちらは超辛口のワインを思わせる味わい。 読んでいて、どの人物が主人公だかよくわからないのだが、どの人物に感情移入するかによって、同じ超辛口のワインでも少しずつ違った味わいかたができそうだ。
いまの世の中、飾りが多くて中身が少ないものが多い。 とくにインターネットの世界は、飾りを取ったら何もないようなものが多すぎる。それが無料なら諦めもつくけど、「この程度で有料かよ!」と言いたいものも、残念ながら存在するようだ。 たとえば「かもめ食堂」のメニューの一つである、ていねいに手でにぎった素朴でおいしいおにぎりのように、きちんと中身のあるものが、この世界にどれほどあるのか――と考えてしまうことがある。 「かもめ食堂」のオーナーのサチエは、武道家の父親に「人生すべて修行」と言われて育った。 学生時代から「素朴でも、ちゃんとした食事を食べてもらえるような店をやりたい」と夢みていたサチエは、開店資金を得るため、まず一般企業に就職する。 その会社は、見た目に派手で味が濃いだけの食べ物をつくっていて、サチエの考えに逆行しているが、とにかくお金がなければ開店はできない。サチエは「人生すべて修行」と自分に言い聞かせて、ひたすら働くのである。 そう。世の中、純粋で素朴でちゃんとしたものばかりではない。お金を得るために、ときには不純だと思いながらも商売をやらざるをえない場合が多々ある。(だからといって法律違反したり犯罪に走ったりするのは論外。最近は思考力の低いヤツが増えてるから、いちいちこういうふうに書かないとダメらしい) やがてサチエは思いがけない大金を手に入れたり、古い知人が保証人を引き受けてくれたりといった幸運に恵まれ、ついにフィンランドで「かもめ食堂」の開店にこぎつけた。やったー。バンザイ。 開店までのプロセスは最初の30ページくらいだが、そこが私はいちばん好きで、何度も読み返した。 この店は、フィンランドで純和風のおにぎりを出す店である。基本的にはフィンランド料理を提供しつつも、さりげなく「おにぎりはいかがですか」とお勧めするのね。 しかしサチエは「フィンランドで日本食ブームを起こそう」なんて少しも考えていない。「フィンランドの人たちの好みに合わせた、新しいタイプのおにぎりを!」とも、あんまり考えてない。 サチエにとって、おにぎりは父親の思い出につながる大切な食べ物だ(父親がサチエのためにおにぎりを握る場面は非常に良い)が、だからといって私的な思い出を他人にひけらかすこともしない。 きちんと作ったものなら、強力に宣伝しなくても、良さをわかってくれる人が必ず現れると信じている。 とはいえ、おにぎりはフィンランドの人々になかなか受け入れられない。 とくに日本の「海苔」は、フィンランドに限らず、一般的に欧米の人々には良さがわかりにくいようだ。 私が前に行ってた英会話スクールの外人講師も、海苔を見ると「紙みたい……」と言った。私は好きだよ、海苔。 そんなわけで苦戦を強いられる「かもめ食堂」だが、簡単にメゲたりせず、きちんと自分の考えで行動できるサチエのキャラクターにすごく好感を持った。 映画『かもめ食堂』では、このサチエを小林聡美が演じた。 この小説は映画のための書きおろし作品ということで、小林聡美が喋るとピッタリはまりそうなセリフばかり。 ううう。読んでいると小林聡美の声が聞こえる。私の脳内DVD状態もバリバリ全開。
すごく面白いとは思うが、人によって好き嫌いが分かれるだろうな。 というか、この小説を思いっきりの笑顔で「だ〜いすき♪」と言える人は、かなり少ないかも。 主人公の「熊太郎」に対しては、なんかもう……感情移入とか、思いいれとか、エールを贈るとかいうよりも、ちょっと嫌悪感。 あまりにも熊太郎が アホすぎる。それなのに、 町田康の筆力で、ズルズルズルズル引きずりこまれて、最後まで読んでしまった。 どんな種類のアホかというと、熊太郎は物事を何でもかんでも考えすぎるのだ。 人に傷つけられたら怒ればいいのに(それが人間として自然だと思うけど)、「嫌われたらどうしよう」とか、「この場でオレが怒っちゃったら、この場の空気がまずくなるかも」とか、いろいろな思いが頭をめぐって、どうしたらいいかわからなくなる。 バクチや酒におぼれる日々から抜け出したい、まじめに生きたい、と思っても、まじめにやるのはカッコ悪いんじゃないか……という気持ちが先に立つ。 いつも人に迷惑かけてばかりだから、たまには人のためになることを……なんて思って、慣れないことを急にやろうとして、失敗して、ますます人に迷惑かけたり。 結局、自分の行動がギクシャクしたものになり、周りの人間に「変わり者」と思われる。 そのことで熊太郎はまた悩み、思考が内側へ、内側へと入りこんでいく。 たとえば 奥田英朗の【サウスバウンド】に出てくる過激なお父さんも、かなり変わっているが、外向型の変わり者である。そして、ひらきなおってる。息子に「オレを見習うな」と言えてしまう潔さがある。 それに対して、熊太郎は完全に内向型。 そんなに人の目ばっかり気にしないで、素直にやりなよ! と言いたいけれども、私自身はどうなんだろうか。私の中に「内向型の熊太郎」的なものがないとは言いきれない。つい自分を見つめたりして。 かなり感受性が強い人には、もしかして辛い本かもしれない。そうでない人にとってもヘビーな内容であることは確か。 熊太郎は最終的に殺人者となるが、その動機は「被害者に恨みがあったから」というより、「アホすぎる自分に腹が立ったから」だろう。 こういう重苦しさを、町田康の独創的な文体が救っている。 「おいおい! 兄弟の名前が葛木ドールと葛木モヘアかよ! いつの時代だよ、これ……。つーか、いつの時代でもこんな名前をつける親はいねーだろ!」などとツッコミながら読むこともできる。 この文体がなければ、【告白】という作品はありえない。むしろ、 文体こそが重要であり、ストーリーはあまり重要視しなくてもいいのかもしれない。 映画化・ドラマ化は絶対に無理。必ず本で読むべき作品。
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