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時は正徳四年(1714年)。 七代将軍徳川家継の生母・月光院(井川遥)に仕える大奥総取締の絵島(仲間由紀恵)は、歌舞伎役者の生島新五郎(西島秀俊)と出会い、女心をふるわせた。 歴史に残る一大スキャンダルを豪華絢爛に描いた娯楽大作。 ご存じの通り、「大奥」とは江戸城の一角につくられた将軍の正室と側室の住居。 徳川家の繁栄のため、将軍の子を産めよ増やせよというわけで、考え方としては海亀や魚が無数の卵を産むのと同じだ。一人っ子では万が一のことがあったとき血筋が絶えてしまう。そうならないように子供を何人も生ませるわけです。 しかし人間の生殖行為には快感が伴う。盛りのついた女どもは大奥にウヨウヨしているのに、将軍は一人だ。将軍以外の男は大奥に入れない。上様がかまってくれないから代わりにご家老様お願いね、というわけにはいかない。 しかも七代将軍の家継はわずか5歳。女を抱く年齢には程遠い。 正室や側室に仕える女たちも、大奥という囲いを終の棲家(ついのすみか)として生きねばならない。 悲惨である。 大奥には女たちの満たされない欲求が蔓延している。これでスキャンダルを起こすなとか、女どうし仲よくやれよなんてことは無理だ。 大奥総取締の絵島が役者の生島新五郎を見てメスの本能を呼び覚まされるのも当然だろう。 ただ主役を演じるのが今をときめく大スターの仲間由紀恵さんだから、ここは「純愛」というふうに描かなければならない。 話はそれだけだ。 ならば美しい嘘を見てきたように語ってくれればいいものを……。 嘘くさい嘘ばかりが並べられている。無駄な場面が多く、間が無駄に長く、126分の作品が3倍ぐらいの長さに感じられて退屈。 巨額の製作費を投じ、派手に宣伝しまくったわりに、内容は惨憺たるものでした。 
公爵の部下だった父の死後、兄から不当な扱いを受ける青年オーランドー(小栗旬)は、宮廷のレスリング大会でロザリンド(成宮寛貴)に出会った。二人は恋に落ちる。 しかしロザリンドは叔父のフレデリック公爵(外山誠二)によって追放され、いとこのシーリア(月川悠貴)とともにアーデンの森へ向かう。 一方、オーランドーも兄の存在に嫌気がさし、ロザリンドが来たとは知らぬままアーデンの森に逃げ込んだ。 アーデンの森にはフレデリック公爵に追放された前公爵――つまりロザリンドの父(吉田鋼太郎)が住んでいた。  というわけで、いろいろと事情を背負った高貴な人々がお供を連れて集まってくるアーデンの森で、明るい恋愛模様が展開される、蜷川幸雄さん演出のシェイクスピア劇でございます。 初演から3年を経ての再演は、2007年7月5日のBunkamuraシアターコクーンでの東京公演から始まりまして、私が見たのは仙台の イズミティ21大ホールにおける8月25日の昼の公演。 しかしね〜、何だかんだ言ってもウィリアム・シェイクスピアは16世紀の人。現代のわれわれから見ると、ストーリーは「そんなもんでいいのかい!」っていうぐらい大ざっぱ。 だいたい、み〜んな「あそこに行けば何とかなる」とばかりアーデンの森に集まっちゃうところが甘いというか、ご都合よろしすぎというか。それで何とかなってしまうのが、なお凄いんだけど。 セリフは修飾語がやたら多くて一度きいただけでは意味が通らないところもあるし、人間関係は芝居を見てても分からないしさ〜。(蜷川さんに叱られそうだ) いま私はこの記事を新潮文庫の『お気に召すまま』と会場で買ったパンフレットと首っ引きで書いています。 でもね、お芝居は「細かいことはどうでもいいや」と思えるぐらい すんごく楽しかった♪のでございます。(どうでもいいだなんて、またも蜷川さんに叱られそうだ) 実を言うと、私が本格的なお芝居を見るのは今回が初めてですが、やはり蜷川さんは凄い人なんだなと実感いたしました。 まずオープニングで驚いた。観客席の後ろの出入口から、役者さんたちがドドドドドッと出てきて通路を走りぬけ、舞台へ上がったかと思うといきなり着替えを始めた。小栗旬さんもオーランドーに変身です。 (ちなみにオーランドーは「ドー」と伸ばすのが正しい。ハリウッドスターのオーランド・ブルームも、「オーランドー」と書くほうが、より英語に近いカタカナ表記になる。発音も「オーランドォ」ぐらいにすると本物っぽいよ) 場面が変わると今度は白いドレスに白い日傘のロザリンドとシーリアが、やっぱり客席側から登場。この後も役者さんたちはしばしば客席側から登場いたします。 これは一種のファンサービスかしら♪ なにせ成宮寛貴と小栗旬、二人の人気俳優が顔をそろえているんですものね――と安直に考えたけど、劇中にこういうセリフがあるんです。 「この世界すべてが一つの舞台……」だから客席とステージの区別なくホール全体が舞台。役者さんたちがホールいっぱいに駆けまわる、それはそれは賑やかで楽しいお芝居が展開されたのでございます。 それにしても、いったい階段を全部で何段、昇ったり降りたりしたのでしょうか。いや〜役者さんって体力勝負なんですね。 もちろん顔も大事。だって『ガラスの仮面』の月影先生も「顔は役者の命です」って言ったもん! ロザリンド役の成宮寛貴さんは目がぱっちりしてて女性的なメイクが映えるけど、やや口が大きくて男性的な声質で、ちょっと新宿二丁目っぽくもある(成宮ファンの皆さんゴメンナサイ)。そういう猥雑さも蜷川さんの狙いかもしれません。 いっぽうシーリアは、てっきり本物の女性が演じているのかと思ったほど女らしい! (いま手元のパンフレットを見ても、シーリア役の月川悠貴さんは惚れ惚れするほど美しい……) でも女優さんが出てくるわけがない。これは「オールメール」、つまり全ての役を男性が演じる芝居なのです。 日本の歌舞伎もそうだけど、シェイクスピアの時代のお芝居はすべて男だけで演じられていたのですね。そういえば男ばかりの芝居の世界に女が一人まぎれこんで騒動を巻き起こす、こんな映画もございました。 さらに本作では、男性が演じる女のロザリンドが、アーデンの森でギャニミードと名のって男のふりをするという一ひねりが加わります。 男のふりをしたまま恋しいオーランドーに再会したロザリンド。すぐ自分の正体を明かせばいいのに、そこでちょっと悪戯心が出ちゃって、男のままオーランドーをからかうんですね。 (「いくら男のふりをしても顔を見ればロザリンドだって分かるじゃねーか!」というツッコミはなしにしよう! なにせシェイクスピアだから! これは喜劇だから! 大らかな心でどうぞ) ところがロザリンドは思いがけずオーランドーの熱い恋心にふれた。しかし「わたくしがロザリンドよ」と名乗りを上げることもできないほど状況はねじれている。男のふりをしたロザリンドに惚れちゃう女まで出てくる始末。 もつれにもつれた恋の糸を前にしてオーランドーたちは叫ぶ。 「どうしてあなたに恋しちゃいけないんだ!」いいえ、いいえ、オーランドー様! 小栗様! 恋しちゃいけないなんてそんな法律はございません! たとえあったとしても、あなた様のためなら、わたくしは法に背くことも厭いませんわ! そんなセリフを勝手につくって叫びたいほど小栗旬くんの憂い漂う端正なお顔立ちが素敵でございます。こちらの胸まで本気で苦しくなるような気がいたします。 笑いに満ちあふれたお芝居ながら、こういう場面では客席がシーンと静まり返ります。苦さと甘さが分かちがたく混じり合った恋の味は、シェイクスピアの時代であろうと、現代であろうと、変わらぬものでございましょう。 大ざっぱなストーリーに過剰すぎるほど修飾されたセリフが飛び交う芝居ではありますが、よ〜くかみしめてみると不変の真理がそこかしこにちりばめられている。やはりシェイクスピアは偉大な劇作家なのだなぁ。 最後にはロザリンドの「魔術」によって4組のカップルが誕生いたします。まあ魔術っつったって要はロザリンドが正体を明かせばいいのですけれどもね。 ただでさえ恋には苦しみが伴うものであり、そのうえ変に自分を偽るとロクなことはない。しかし人間は得てして複雑な状況に自分を追いこみがち。そんなときには「自分に素直になる」ことほどシンプルで強力な魔術はないのかもしれません。
阿修羅めざめる時さかしまの天空に不落の城うかび現世は魔界に還る。 ……あ、「現世」は「げんせ」じゃなくて「うつしよ」と読んでください。 出演は宮沢りえ、市川染五郎、渡部篤郎、樋口可南子、小日向文世。 外連味(けれんみ)たっぷりに見せてくれる、エロスと血のにおい漂う作品。「やさぐれた天空の城ラピュタ」というか、「邪悪なロミオとジュリエット」というか、「ウルトラスーパーモダン歌舞伎」というか。 お子ちゃまは見ないでください。私、こういうものを子供時代に見たら、恐怖の記憶だけが後々まで残りそうです。そういう意味では大人になって良かったなぁ。こういうの、面白いもんなぁ。 「阿修羅」とは簡単に言えば「闘争を好む悪神」。こやつを倒さねば現世が魔界と化しますが、では誰が阿修羅を倒すのか。ウルトラマンのような正義の味方は一人も登場しません。 現世には人間の姿をした鬼たちが溢れている。それを駆逐せんと目を光らせているのは闇奉行の「鬼帝」(おにみかど)。鬼を見つけるや否や「わははははは」と狂ったように笑い、ばっさり刀を振りおろす。 こんな「鬼帝」こそが本当の鬼であります。右も左も鬼ばっかりの現世。 かつては鬼帝の副長で、「鬼殺しの出門」と異名をとった男(市川染五郎)は、現世では歌舞伎役者の病葉出門(わくらば・いずも)として生きている。 女には不自由しない色男の出門が、「つばき」と名のる美しい女(宮沢りえ)に出会って心が騒ぐ。女には5年前の記憶がない。白い肩には不思議な形の赤い痣がひとつ。 この女、どこかで会ったことがある――出門は女との出会いに運命的なものを感じます。 いっぽう、鬼帝の邪空(渡部篤郎)は、童女の姿をした阿修羅が強い男との出会いによって邪悪な力に目覚めることを知り、阿修羅の力を己のものとし天空を支配せんと企む。 では阿修羅を目覚めさせる強い男とは誰なのか。阿修羅となる女はどこにいるのか。もしや赤い痣を持つあの女ではないのか。 というわけで出門と邪空は一人の女をめぐって争うことになります。 それにしても、女が男に身も心も深〜く愛されて阿修羅に変身しちゃうとすれば、その女は男を恨むのでしょうか。それとも愛するのでしょうか。 男は女に恨まれても後を追いかけていくのでしょうか。女は男を恨んでも追いかけられたら悦ぶのでしょうか。 男は歌舞伎調で女にこう言います。 「手練手管でイかせてやるぜ! あの世へな!」 いやーん♪ ……いやがってるのか悦んでるのかハッキリせい、という話ですね。でもハッキリ分かっちゃったらそれは恋じゃないなと思うわけです。 恋の悦びは苦しみの影を落とし、恋の苦しみは悦びの甘い後味を引く。そういうものではないかしら♪ 女は深い刀傷を負って出血が止まらぬ男の身体に抱かれ、自分の中に棲む何かが目覚めるのを感じます。 その様子を芝居のネタにしようと、劇作家(小日向文世)がギラギラした目で覗いています。ここがいちばん怖かった。 男と女の恋模様を、鬼が鬼を斬り捨てる様を、面白いとか面白くないとか言って見ている目。 それはこの映画を観ている私の目だと気づいたら、背筋がさっと冷たくなりました。
クリント・イーストウッドがメガホンをとり、太平洋戦争中の硫黄島での激戦を描いて話題を呼んだ作品。 主なキャストは下記の通り。 栗林(陸軍中将) 渡辺謙 西郷(陸軍一等兵) 二宮和也 西(陸軍中佐) 伊原剛志 清水(陸軍上等兵) 加瀬亮 伊藤(海軍大尉) 中村獅童 花子(西郷の妻) 裕木奈江 現在の硫黄島は東京都小笠原村に属する。米軍の施設と海上自衛隊の基地があり、上陸には東京都の許可が要る。 もちろん観光目的ではダメで、上陸許可がおりるのは慰霊、遺骨の収集、戦史の研究、学術調査、基地の改築などに限られるようだ。 映画は、おそらく硫黄島で遺骨かなにかを収集する人々が、地面に埋まった物体をスコップで掘り出す姿から始まる。 スコップがズームアップされ、場面は切り替わって戦時中の硫黄島となる。 西郷(二宮和也)らが塹壕を掘っている。 「塹壕(ざんごう)」を広辞苑でひくと、「野戦で敵の攻撃から身を隠す防御施設。溝を掘りその土を前に積み上げたもの」と出ている。 しかし、溝を掘ったくらいで米軍の攻撃を防ぎきれるものだろうか。 新たに硫黄島守備隊の指揮官に着任した栗林中将(渡辺謙)は、米軍の強さをよく知っていたから、塹壕を掘る作業をやめさせ、計画を練りなおすが…… 他の将校たちは栗林中将の計画に反対し、守備隊の指揮系統は大いに乱れる。 いくらトップが立派な人でも、中間管理職がアホだと、最下層の人々は困る。 戦時中だから、困るどころの話じゃない。生死を分ける大問題になる。太平洋戦争の結果を知っている後世の私たちには、「仲間割れしてる場合じゃないんだよ……!」と突っ込みたくなる光景だ。 案の定、硫黄島に攻め寄せてきた米軍は、量も質も日本軍を遥かに超えていた。 日本軍は武器どころか食糧や飲み水にさえ事欠く有様。 なのに、なぜ日本はアメリカと戦争なんか始めちゃったんだろう……。 それについては半藤一利先生の【昭和史】をご参照あれ。 さて硫黄島守備隊の面々は、故郷の家族に宛てて手紙を書く。栗林中将(渡辺謙)は子供たちを想い、西郷(二宮和也)は出産したばかりの妻(裕木奈江)を想う。 手紙を書いても、戦時中のことだから無事に届くかどうか分からない。それでも彼らは手紙を書かずにはいられない。 守備隊の奮闘も虚しく、硫黄島に最期の時が迫る。栗林中将は彼らの想いが詰まった手紙を西郷に託した。 クールな演技を通してきた二宮和也が、ラストシーンで感情を爆発させる。 中村獅堂の演技も凄みがあった。このかたは演技の幅が広いですねえ。良い役者さんなんだから、あまり週刊誌のネタにならないように私生活を引き締めてもらいたい。 渡辺謙は安定感がありますね。映画『ラスト・サムライ』も渡辺謙がいなきゃ箸にも棒にもかからない作品になっていたのでは……と個人的には思う。 ところで『ラスト・サムライ』では武士の着物や小道具などが微妙に変で、ものすごく違和感があって仕方がなかった。あれでハリウッドの人たちは「完璧!」と思ったのだろうか。日本人だって時代劇を作るときは、詳しい人に時代考証をお願いするのに……。 でも本作では『ラスト・サムライ』のときのような違和感はない。聞くところによると、【昭和史】の半藤先生からもお褒めの言葉が出たらしい。 シンプルなストーリーながら心に強く訴えかける作品であった。 イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』も見てみようかと思ってます。
オール宮城ロケの本作が、5月12日から宮城県で先行上映されている。私も見てきたが、これはすごくいい。とくに 瑛太がカッコいい。全国の瑛太ファンは必見。  原作小説のほうは、正直なところ良さが今ひとつ分からなかった。伊坂幸太郎の文体や構成は、ときに「胃もたれ」するし、登場人物の感情が明確に伝わってこないことがある。 「それはぱんどらさんが『読み取れてない』ってことでしょ」 はい。そういうことです。恐縮です。 しかし映像化されれば文体は関係ない。 伊坂ワールドを読み取れない私のような不粋な人間でも、映画はものすごく楽しめた。 ところで原作小説をお読みになったかたは、「映像化は無理かも」と言われていた例の「仕掛け」が気になるだろう。 私も気になって、最初のうちは「そのへん、どうなのよ?」という穿った見方をしていたが、やがて映画そのものに引き込まれ、「仕掛け」への懸念が薄れた。 そこへ「仕掛け」がドンと来た。 「あっ、そういうやりかたがあったか! へ〜っ! そうかそうか!」私は感心し、映画館の中で声を出さずに笑った。 ボブ・ディランの曲も良すぎるほど良い。主役の濱田岳くんは歌がうまいね。 エンディングは爽やかで、それでいて寂しさの風がひとすじ吹く。 すべての答えは風の中にある。 伊坂ファンの皆様、ご懸念めさるな。
日テレの『金曜ロードショー』でオンエアしたものを見た。 ちかごろ話題の邦画を見ると、たいてい堤真一が重要な役どころで出演している。本作もその通りだけど、この人は他の作品のイメージをひっぱらないね。それぞれの作品の中で求められるものをキッチリ表現し、その色あいを他の作品に滲ませない。 日本の映画関係者は堤真一を表彰すべきだ。 舞台は昭和30年代の東京。空を見あげれば建設中の東京タワーが目に入る。 堤真一が演じるのは、小さな自動車修理工場「鈴木オート」の社長。そそっかしくて短気で、従業員を雇っても「出ていけ!」なんて怒鳴りつけるものだから、すぐ辞められてしまう。 田舎から東京へ出てきて、鈴木オートの住み込み従業員となる少女「六子(むつこ)」を演じるのが堀北真希。ほっぺを赤くした、ちょっと田舎っぺなメイクが可愛らしい。 東京へ行く列車の中で「どんな仕事するんだべ。社長秘書だべか♪」と夢をふくらませていた六子は、鈴木オートの古びた小さな建物を見て愕然とする。しかし社長の妻(薬師丸ひろ子)のフォローがあり、夫妻の息子も六子になつき、少しずつ東京生活に慣れていく。 鈴木オートの向かい側には、駄菓子屋を経営しながら文学賞を狙って小説を書きつづけるインテリ青年の茶川(吉岡秀隆)が住んでいる。 この茶川に、近所の飲み屋の雇われママ(小雪)が、「知り合いの子供なの。先生お願い♪」と言って、淳之介という少年(須賀健太)を預ける。茶川は酒の勢いと女の色香のせいで正常な判断力がいささか失われた状態で、淳之介を引き受けてしまう。 鈴木オートと、茶川の駄菓子屋。この二軒を中心に物語が展開する。 ここまで設定を理解し、テレビの番宣で繰り返し流れた映像(吉岡秀隆と須賀健太がひしと抱き合ってオイオイ泣き崩れるシーン)を思えば、そうかそうか赤の他人が一時的に「擬似親子体験」をしたことで情が移って別れが辛くなるのだな……と、だいたいの展開が読めてしまう。 だから私は泣きの場面なんてどーでもよかったんだが、笑いの場面がすごくよかった。もう爆笑につぐ爆笑。これがなければ、とっとと見るのをやめてたよ、私。 で、笑いの場面をここに文字で再現しようと思ったんですが、こういうのは言葉で説明しちゃうと面白さが半減……どころか3分の1ぐらいになってしまうので、ご興味のあるかたはDVDでご覧くださいまし。年末年始のお休みにふさわしい娯楽作品です。 あまりにもご都合のよろしすぎる、現実にはありえない展開もあるにはあるけど、登場人物が善人ばかりでホッとする。殺伐たる現代社会に生きる我々にひとときの息抜きを与えてくれる。 来年には本作の続編が公開予定とのこと。
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