宮部みゆきの長編小説を、森田芳光監督が自身の脚本で映画化。 東京都内で連続女性誘拐殺人事件が起こった。犯人はマスコミを手玉にとり、殺人現場を生中継して世間を震撼させる。 フリーライターの前畑滋子(木村佳乃)は犯人を追うが、滋子の家族にまで犯人の魔の手は及ぼうとしていた。 評価=☆☆☆ (5つ星が満点) もし「模倣犯」世論調査というものがあるとすれば、まず間違いなく宮部みゆきの小説のほうが高い支持率を得ると思います。 だいたい小説の映画化においては、映画が「小説と違う!」と批判されるのが通り相場。 しかしこの作品の場合、原作小説をすっかりそのまま映画化して2時間におさめるのは難しいでしょう。 宮部みゆきの小説では、きめ細かい筆致で被害者家族と加害者家族の苦悩や悲しみを描き、犯人の卑劣さを際立たせています。 大長編小説です。単行本は2段組の分厚い上・下巻。文庫本でも5巻にわたる長さ。 映画では、犯人の凶悪性・猟奇性を前面に出し、キレのある映像で事件の流れを追います。 森田監督らしい小ネタもふんだんにちりばめられています。まあ私なんかは凡人ですから、意味がよくわかりませんが、きっと左脳で意味を考えちゃダメなんでしょうね。 (DVDの特典映像として「映画『模倣犯』44の謎チャプター」がついており、これを見れば凡人の私でもわかるかと思いましたが……かえって混乱しました) 犯人グループの一人を演じた津田寛治にはゾッとさせられました。女がさわった10円玉を口の中に入れて笑うんです。怖いよー。 主演の中居正広はソツのない演技で、悪くありません。ジャニーズからは中居くんのほか、田口淳之介が出てます。ジャニーズはこういうところに若手を押し込むのがうまい。 前畑滋子役の木村佳乃は冴えませんね。演技がうまくないというより、だれがこんな演技つけちゃったの、という感じ。 それでも前半は小説を映像でうまく「翻訳」したという印象です。しかし後半は小説の文字情報にひきずられてしまったのか、どうもピリッとしません。 ラストで「驚愕の爆発シーンがある」と聞いていて、それはそれは驚きましたが、実はそのあとにもう一ひねりあるんですね。 あまりにも唐突で、整合性に欠けていて、爆発シーンを上まわる衝撃(あるいは笑撃)を受けました。どのようなシーンであるかは説明を控えさせていただきます。 私が原作者だったら試写会で卒倒しますね。 あれはジャニーズのタレントさんに悪いイメージを残さぬように……という配慮なのでしょうか。 そういう横ヤリがジャニーズ側から入ったとすれば、森田監督にも同情の余地はあると思いますが、皆さんのお考えはいかがでしょうか。 
ハリウッドスターのボブ・ハリス(ビル・マーレイ)は、CM撮影のため日本へやってきた。日本語も日本文化もよく知らない彼には、見聞きするものすべてが奇妙に思えて仕方ない。 独り寝の夜を持てあまし、ホテルのバーへやってきたボブの前に現れたのは、カメラマンの夫に同行して日本を訪れたというシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)であった。 評価=☆☆☆ (5つ星が満点) 日本全国の英語学習者にとっては、けっこう辛辣な作品です。 「どうして日本人はLとRの発音がヘタなのかしら?」というセリフがあって、思わず「うるさいよ」とツッコミを入れました。私らも好きこのんでヘタに発音してるわけではない。 まあアメリカ人には日本人の英語の弱点なんて分かりませんから。こういう映画DVDを内容も知らずにレンタルしてしまったら、もう苦笑するしかありません。 スカーレット・ヨハンソンという女優は色っぽいですね。とくに積極的に肌を見せるわけでもないのに、色気が漂います。そのくせ影があって、知的な印象もある。 あんまり複雑なストーリーはありません。要するに寂しい男女が出会って、いずれ別れのときが来るとわかっていながら楽しいひとときを過ごしました、というお話で、まあラストシーンはなかなか切ない。 日本の人気コメディアンという役柄で藤井隆が出演しています。 しかし日本を小ばかにしたような作品に、なぜ日本人のタレントが出演を承諾するのか。ハリウッド映画に出られれば内容や役柄はどうでもいいのか。 私にはよくわかりません。 
「家元」、「オダ・ユージ」、「スネーク」、「安男」、「いちご娘」と名のる5人は、グラビアアイドルの如月ミキの熱烈なファン。 いつもはインターネットで情報を交換し合う彼らが集まって、じかに顔を合わせたのは、如月ミキの一周忌に追悼会を開くためだった。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が満点) 追悼会では、「家元」(小栗旬)が自慢の「如月ミキ秘蔵コレクション」を公開し、ほかの4人も負けじとマニアックなミキちゃん知識を披露し合います。 やがて5人は如月ミキの死因が自殺とされたことに疑念を抱き、「如月ミキ他殺説」が飛び出して、会の空気は一変。 この中にミキちゃんへのストーカー行為に及んでいた者がいるのではないか。ひょっとしたら殺人犯がいるのではないか。 5人は疑心暗鬼に駆られながら推理をしますが、しだいに会話内容が「おれってミキちゃんにこんなに接近したことあるんだぜ自慢」へと変化していくのでした。 恩田陸が戯曲 『猫と針』を書く際に、「喪服姿で集まった人々が故人について語り合う」という設定が、この映画と似ているということで、気になって映画を見に行き、『猫と針』とは内容が全然ちがうので安心したそうです。『猫と針』に収録されている「『猫と針』日記」に書いてありました。 『猫と針』での故人は、集まった人々にとって共通の友人でした。 こちらの故人はアイドル。ファンにとってはテレビや雑誌でしか知りえない人です。イベント会場へ行っても、ステージと客席の間には越えられない一線があります。 ファンは一線の向こうに、そのアイドルにしか発することができない特別な光を見る。だからこそアイドルを追いかけずにはいられない。たとえファンの姿が第三者の目にはアホにしか見えなくても(笑)。 わかるなあ。「家元」さんのファン魂。 それはそうと、この作品では小栗旬や小出恵介といった人気俳優が顔をそろえています。ファンに追われる立場の彼らにとって、ファン魂は嬉しくもあり、場合によっては怖ろしいものにもなります。 熱いファン魂をお持ちの全国の皆様、あなたの大切なスターに迷惑をかけないよう、くれぐれも自制いたしましょう。(そう言う自分がいちばん気をつけろ、という話ですね、はい) 
モロッコ、アメリカ、メキシコ、東京と、4つの場所で紡がれる別々の物語が、一つの事件によってつながっていく。言葉が通じない、心が通じない人間たちの姿をリアルに描く。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) この作品を劇場で見た友人が「あんまり良くないよ」と語るものですから、べつに見なくてもいいかなと思っていました。でも菊地凛子が頑張ってアカデミー助演女優賞候補に挙がったことですし、まあ見るだけ見てみようというわけでDVDをレンタルしました。 これは悪くないです。 でも監督さんが徹底的にリアリティにこだわったせいか、目をそむけたくなるシーンがいくつかありました。ビジュアルの印象は強烈ですから、映画館の大きなスクリーンで見ると辛いかもしれない。 私は自宅でDVDを見たから「ううっ……」ぐらいで済んだものの、友人と一緒に映画館にいたらどんな反応をしたか分かりません。麻酔なしで傷口を縫う場面の大写しなんて勘弁してほしい。 バベルとは旧約聖書の「創世記」に出てくる町名です。人々は天まで届くバベルの塔を建てようとした。神はその傲慢さに腹を立て、人々の言葉を混乱させた。だから世界中にたくさんの言語ができた、というお話。 映画ではモロッコの遊牧民、旅行中のアメリカ人夫婦、その子供たちを世話するメキシコ人のベビーシッター、東京の聾学校に通う日本人の女の子、その父親……と、いろいろな人々が登場しますが、根っからの悪人は一人もいません。 ただ、言葉が通じなかったり、誠意が相手に伝わらなかったり、偏見があるせいで相手の言葉を悪く解釈したりして、物事がうまく運ばない。「バベル」というタイトルの意味はそういうことです。 ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが演じるアメリカ人夫婦は、旅行中に思いがけない事件に巻き込まれ、妻が負傷したためモロッコで救助を待ちます。 ブラッドは渋かったなあ。負傷した妻がトイレに行けず、夫が手を貸して用を足させるシーンは感動的でした。 アカデミー助演女優賞候補に挙がった菊地凛子は、体当たりの演技で、「がんばったで賞」を授与したい感じでした。威勢よく脱いじゃってます。でも、あまり売れてない女優さんが、いきなりハリウッド映画に出演する機会を与えられたらフルヌードでも何でもやるでしょう。ためらえばビッグチャンスを逃します。そういう意味で彼女の意欲を買いたいところですが、演技そのもので見ればケイト・ブランシェットのほうが上ではないでしょうか。 それでもラストシーンの菊地凛子は強く印象に残りましたね。 父親(役所広司)との関係がうまくいかないチエコ(菊地凛子)が、父親にすがって泣きます。 そのシーンに至るまでの経緯を考えると、父と娘の気持ちが完全に通じ合ったとは思えないんです。たぶん二人の間には気持ちのズレがある。ズレたままボタンをかけてしまった感じ。 そしてモロッコ・アメリカ・メキシコ・東京の4つの物語は、ようやく一つの環としてつながりますが、つなぎ目それぞれにズレがあって、きれいな円になりません。 世界は数多くの誤解と理解で成立している。そんな気がします。 
日本の外交官・杉原千畝(反町隆史)は、妻の幸子(飯島直子)を連れてリトアニア日本領事館に着任した。 まもなく第二次世界大戦が勃発。ナチスによるユダヤ人迫害を目の当たりにした杉原は、外務省の命令に背き、大量のビザを発給してユダヤ人の亡命に助力する。 のちに「SEMPO SUGIHARA」として世界中に名を知られた彼の半生を描く、終戦60周年記念ドラマ。製作は読売テレビ、2005年10月11日に日本テレビ系列で放送。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) このドラマはリアルタイムでは見なかったのですが、このたび吉川晃司が ミュージカル『SE・M・PO 命のビザ 杉原千畝物語』で主役を演じることになりまして、主人公の杉原千畝について調べるうちに「あ、こんなドラマがあったんだ」というわけで、さっそくDVDをレンタルしました。 ちなみに吉川晃司が初の主演をつとめるミュージカルは2008年4月4日より上演されます。詳しくは下記のサイトをご覧くださいませ。 『SE・M・PO』特設サイト杉原千畝は「すぎはら・ちうね」と読みます。 「ちうね」がユダヤ人には発音しにくいと気づいた杉原は、自分から「センポと呼んでくれ」と申し出たということです。 結論から言うと、このドラマは泣けます。 リトアニアの杉原が、外務省の許可を得ずにユダヤ人へのビザ発給を決断したころ、彼のプラハへの転勤が決まっていました。 つまりビザ発給にあてられる時間は限られていたわけです。 当時のリトアニアには、どれほどのユダヤ人が流入していたのでしょうか。 杉原が発給したビザでリトアニアを出国したユダヤ人は約6000人。一説には6000人を超えるとも言われますが、ビザを求めたのに入手できなかったユダヤ人の数も多かったことでしょう。 後世のわれわれは「6000人ものユダヤ人を救った」として杉原の偉業を讃えます。しかし当の杉原にとっては「たった6000人しか救えなかった」という否定形の思いが強かったのではないでしょうか。 ビザを求めるユダヤ人は連日、領事館の前に列をなします。プラハへの引っ越しを控えた杉原がホテルに移れば、今度はそちらにユダヤ人の列ができます。 杉原は駅のホームで列車の発車時刻ぎりぎりまでペンを走らせつづけます。それでも間に合わない。全員にビザがゆきとどかない。 発車まぎわに強引に列車へ押し込まれた杉原は、無念の涙を流します。 見る者の心を揺さぶる、反町さんの熱演です。 しかし細かいところで言えば、セリフとセリフの間隔、あるいは場面と場面の間隔が、すべて1拍ずつ多いような気がします。間(ま)を1拍おけばいいところを2拍おき、2拍でいいところを3拍おいている。(あくまでも私の感覚です) 要するに私が短気なだけかしら、とも思いますが、最近の2時間以上のスペシャルドラマや、ドラマを映画化した作品では、どうも間(ま)が気になって仕方がありません。 
母を売る店で買われた女・撫子(白石加代子)と、死んだ母親を慕いつづける身毒丸(藤原竜也)の壮絶な愛憎を描く。 蜷川幸雄の演出で、2002年1月に彩の国さいたま芸術劇場大ホールで上演された舞台をDVD化。 「身毒丸ファイナル」オフィシャルサイト評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) こういうものをレンタルDVDで見られるんですね。田舎に住んでいるとお芝居なんてなかなか見に行けないから、ありがたいです。 ストーリーの説明は野暮だから省略。 抗えない毒の魅力が言葉や理性を超えて神経を直撃してきます。 子供のころ、親が隠しておいた妖しい本を見つけちゃって、ああもうお母さん帰ってくるから見るのやめなきゃ、元の場所に戻さなきゃ、と思いながらも目を離せなかったことを思い出します。 このDVDを寝る前に見たら夢に出ました。 DVDで見てこの調子なので、もしナマの舞台を見たら以後の数日はどうなっていたか想像もつきません。 ご存じのかたも多いかと思いますが、藤原竜也さんは1997年に「身毒丸」のオーディションで蜷川幸雄さんに見いだされ、俳優デビューを果たしています。 そのあと映画『バトル・ロワイアル』やNHK大河ドラマ『新選組!』などへの出演が続き、2002年に本作の『身毒丸ファイナル』があり、2008年の今年はワシントンD.C.で6年ぶりに『身毒丸』を再演し、好評を得たとのこと。 もっと芸歴の長い人のような気もしましたが、実は突然あらわれて突然スターダムにのし上がった天才肌なんですね。 そんな若い才能をがっちり受け止める白石加代子さんの演技にも凄みを感じます。 
ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)が乗った飛行機は、アメリカのジョン・F・ケネディ国際空港に到着した。 だが飛行機の離陸直後に、ビクターの母国でクーデターが勃発、政権は崩壊。パスポートは無効となり、入国ビザも取り消された。そのためアメリカへの入国を許可されず、さりとて帰国することもできないビクターは、空港ターミナルでの生活を余儀なくされる。 評価=☆☆☆ (5つ星が最高点です) 「なにゆえにお役所仕事はこんなに愚かしいのか!」と、ふつふつと電子ポットのように感情を沸きたたせながらの映画鑑賞となりました。(すみません。短気なもので……) いくら政権が崩壊したとはいえ、たかだか罪のない旅行者ひとり、なにか緊急の措置を講じてパスポートやビザをどうにかしてやれないのか、と思うわけです。 しかし主人公のビクターはメゲることなく、空港内で金を稼ぐ手段を見つけます。また、母国語で書かれたガイドブックを英語版のそれと比較して読んで、英語を習得するんですね。この前向きな姿勢が大変よろしい。 やがてビクターは空港の従業員たちと仲よくなり、客室乗務員のアメリア(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)との関係も良いほうへと発展。 いっぽう空港の保安責任者は、自分の保身ばっかり考えて、ビクターを救おうとしないどころか嫌がらせをします。ここに彼とビクターとの対立の構図ができあがります。 最初から美味しいと分かっているものを食べて「ああ美味しかった」と満足するような、間違いがないというか、安定感があるというか、そんな作品だと思います。 ちなみに本作は、シャルル・ド・ゴール国際空港で16年も生活したイラン難民のアルフレッド・メヘランさんがモデルになったと言われ、メヘランさんに「ドリームワークスから映画化権料として25万ドルが支払われた」という報道もあったそうです。 ただし公的には、メヘランさんと本作とは無関係とされているようで、なんだか訳が分かりません。 でも私は映画を見る前にメヘランさんの話を知っていたので、ドリームワークスやスピルバーグ監督の見解がどうであろうと、メヘランさんの話を思い出してしまいます。 この映画よりもう少し複雑な、メヘランさんの空港生活については、こちらの本をどうぞ。 
今昔亭三つ葉(国分太一)は古典落語をこよなく愛し、いまどきの若手落語家には珍しく常に着物姿で修行に励むが、なかなか真打に昇格できない。 そんな三つ葉のもとへ「話し方を学びたい」と押しかけたのは、美人なのに無愛想な十河五月(香里奈)、関西弁のせいでクラスになじめない小学生の村林優(森永悠希)、マイクの前でうまく話せないプロ野球解説者の湯河原太一(松重豊)。 自分の落語にさえ自信が持てない三つ葉は、3人に何をどう教えたらいいのか戸惑う。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 無愛想にもいろいろ種類があると思うんですよ。 香里奈が演じる十河(とがわ)という女性は、繊細すぎて深く考え込むタイプかもしれません。 ほおずき市へ三つ葉(国分)と一緒に行って「買ってやるよ」と言われたならば、すぐに笑顔で「ありがとう!」と言えばいいんです。 ※ ほおずきいち【鬼灯市】 7月9・10の両日、東京浅草観音の境内に鉢植えのホオズキを並べて売る市。7月10日は浅草観音の四万六千日(しまんろくせんにち)に当り、大勢の参詣人でにぎわう。 [株式会社岩波書店 広辞苑第五版] その「ありがとう」が十河には言えない。 三つ葉は落語で行き詰まっている。どう見てもお金持ちではない。こちらから「ありがとう」と言えば「買ってくれ」と言っているのと同じこと。だからといって「あなたはお金がないだろうから買ってもらわなくてもいい」と言うのも失礼だ――とまあ、これは私が妄想した十河の心情ですけど。 結局、十河の口から出た言葉は「荷物になるから要らない」です。きっと心の中に優しさはあるでしょう。でも表に出る言葉がこれでは可愛くない。もちろん三つ葉は気を悪くします。 十河に必要なものは素直さと、自分に対する自信なのかもしれません。 さて「話し方教室」での三つ葉は、十河と村林と湯河原という3人の生徒に「古典落語を一つ暗記しろ」と命じます。落語家ですから教えられるものは落語しかないんですね。 かといって落語を暗記するだけで十河たちが状況を打開できるのかどうか。しかも教える三つ葉自身が落語家としては中途半端なところにいる。 自分に自信を持てない者が4人、互いにぶつかりあい、カッコ悪い自分をさらけ出すことになります。こんな「話し方教室」によって4人は何を得たのか。はたして自分に自信が持てるようになるのか。 気分よく楽しめて、なかなか奥行きの深い作品だと思いますが、十河と三つ葉の恋模様を絡ませたのは、やや無理があるように感じられました。恋の一歩手前ぐらいで止めておいたほうがよかったかも。 それにしても主演の国分太一は器用な人ですね。着物の裾のさばき方とか、草履での歩き方とか、ぎこちなさがありません。 肝心の落語の部分は、どうなんでしょうね。私は古典落語については全くの門外漢で、最初の「真打に昇格できないダメダメな三つ葉」と、終わりのほうの「落語の真髄をつかみかけた三つ葉」とを比べて、その語りの違いはよくわかりませんでしたが、終わりのほうを見て笑えたことは確かです。 うまい具合に編集して笑えるように見せているのだろうとは思いますが、演じる役者が丸っきりのダイコンでは、いくら編集したところでダメなものはダメでしょう。 そこは週に何本ものレギュラー番組をこなす国分太一、さすがに器用なものです。人気タレントの「人気の真髄」を本作に見たような気がします。 
かつて天才と称えられた作家・重松時子(浅丘ルリ子)は謎の死を遂げた。金庫から毒薬と遺書が発見され、警察はこの一件を自殺と断定した。 あれから4年。時子と縁の深い女たちが集まって彼女を偲ぶ宴をひらく。 ノンフィクションライターの塩谷絵里子(鈴木京香)、ミステリー作家の林田尚美(富田靖子)、純文学作家の杉本つかさ(西田尚美)、美術関係のエッセイなどを手がける川渕静子(原田美枝子)、編集者の綾部えい子(加藤登紀子)。 酒と料理を囲んでの和やかな空気を破ったのは静子の一言だった。 ――あたしが時子姉さんを殺したんだわ。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) や、これはちょっと驚きでした。 正直なところ、先に小説を読んだから映画は観なくてもいいかなと思ってたぐらいなんです。 原作小説(徳間文庫)のカバーの折り返しに映画からの写真が使われていて、配役は分かったし、そのとおりのビジュアルを思い浮かべながら読めば映画と同じことだろうと、自分を過信して不遜な思いを抱いておりました。 しかし見てよかったです。原作小説の雰囲気を損なわず、それでいて小説でゆるいと感じられた部分は見事に引き締められています。 もしかしたら純粋な映画ファンの皆さんにとっては物足りない感じがあるかもしれませんが、小説からこの作品に入った私には、かなり楽しめました。 それにプロの女優さんの演技は、私のような素人の半端な想像力を超えます。とくに「重松時子」役の浅丘ルリ子さんは凄い。 人一倍プライドの高い時子が小説を書けない苦しみに襲われたらどうなるか。 時子は原稿用紙をちぎって食べはじめ、「食べきれないわ……」と言って原稿を若い作家の口へ押し込むのです。 思わず鳥肌が立ちました。 ラストシーンは小説よりも一歩、いや半歩ぐらい踏み込んだ感じでしょうか。 小説のままだと、ちょっとトリックとしてはゆるいんですよね……。映画はそこで終わらせずに、編集者の綾部えい子と作家の重松時子のいわく言いがたい関係を暗示するような深いラストシーンになっています。 それにしても小説では「回想」にすぎなかった重松時子が、映像化されて目鼻がつくと、ぐっと存在感を増しますねえ。もっと重松時子の物語を見てみたい気がします。 10年後ぐらいにノンフィクションライターの塩谷絵里子が時子についての本を出したという設定で、続編があってもいいんじゃないでしょうか。 というわけで妄想の続編企画のキャスティングです。 10年後の絵里子……原田美枝子 10年後の綾部えい子……加藤登紀子 重松時子(回想)……浅丘ルリ子 若き日の時子……富田靖子 ひそかに時子へのライバル心を燃やす静子……鈴木京香 時子を支えつづける若き編集者のえい子……西田尚美 
戦争の影が日に日に色濃くなっていく昭和15年の秋。 劇団「笑の大学」の座付作家である椿一(稲垣吾郎)は、脚本の検閲を受けるため、警視庁保安課検閲係の向坂睦男(役所広司)のもとを訪れた。 笑いのセンスがないと自称する堅物と、暗い時代を笑いで切り開こうとする喜劇作家の対決の行方はいかに。 ゴローちゃんは左利きなんですね。この作品を見るまで気づきませんでした。 ゴローちゃん演じる椿は、警視庁の向坂(役所広司)が見ている前で脚本の書き直しをさせられますが、最初は「ご時勢にそぐわない不謹慎な場面を削除する」という目的だったのに、だんだん「脚本を面白くする」という方向にズレていきます。 アイデアに詰まって、「こんなときは実際に動いてみるといいんですよ」と言って二人で劇中の人物になりきる場面はもう笑えて笑えて仕方ありませんでした。 やっぱり役所さんの演技は凄いです。笑いでも泣きでも。 ゴローちゃんは昭和初期のファッションが妙に似合います。金田一耕助とかね。 物語の舞台はほとんど警視庁の取調室のみ。三谷さん脚本の映画にしては地味だなあと最初は思いましたが、すごく広がりのあるストーリーなんですね。 さんざん笑った後に、予想もしなかった泣きどころがドーンと来まして、ラストでは胸が詰まりました。 こういうエンタテインメントを心おきなく楽しめる時代に生まれたことに感謝します。 
殺人事件を起こして服役中の男が、獄中で新たな罪を重ねる。 男の動機とは何か。 タイトルがカッコいいのでレンタルしたDVDです。 私は本もレンタルDVDも、だいたい「タイトル買い」「タイトル借り」です。 しかし事件の動機を知りたい気持ちより、不気味さ、怖さ、気色の悪さが先に立ち、最後まで見ていられませんでした。 
大晦日を迎えたホテルアバンティでは、カウントダウンパーティーとマン・オブ・ザ・イヤー表彰式の準備で大忙し。 そんなところへ、マスコミに追われて雲隠れ中の政治家や、年明け早々のステージを控えて緊張感いっぱいの歌手が訪れて、従業員たちは息をつく暇もない。 ところがパーティーに出演する芸人が連れてきたアヒルは逃げ出し、妖しげなコールガールがロビーを徘徊して、ホテルアバンティの歯車は微妙に狂い始める……。 言わずと知れた三谷幸喜作品。とっくにテレビ放映もされましたが、実は私、録画したものを消してしまいまして、レンタルDVDのお世話になった次第です……。 やはり面白いですね。難しいことはな〜んにも考える必要なし。DVDプレーヤーの再生ボタンを押すだけで、めくるめくエンタテインメントの世界が広がります。 人気の役者さんたちが何人も出演なさってますが、その中でも私の目を引いたのは、悪事がバレて雲隠れ中の政治家を演じた佐藤浩市さんです。カッコいいです。魅力的な悪役です。 ただ、悪役といっても根っからの極悪人ではありません。 この映画には極悪人が一人も登場しません。たしかに悪事をやらかす人間や、嫌味な人間は出てきますけど、最終的には誰も彼もがハッピーの渦に巻き込まれてしまいます。安心して見られる作品ですね。 ちかごろ女優としての活躍がめざましいYOUさんが、映画のラストで聞かせてくれた歌声も絶品でした。(もともとは歌手として芸能界デビューを飾ったかたですよね) そんなこんなで、たっぷり映画を堪能してエンドロールを見て、「ああ、これはフジテレビさん絡みの映画だったのか」と初めて気づきました。 個人的なことですが、フジテレビさんが製作にかかわった映画を見ると、どうも亀山プロデューサーくささを感じます。きっとフジテレビの社内を肩で風きって歩いてらっしゃるんだろうなぁ……とか想像してしまう(笑)。 だけど三谷幸喜さんみたいな人気の脚本家さんが出てくると、やはり三谷幸喜さんくささが前面に押し出される。きっと映画製作上の力関係が変わって、「三谷さんにお任せしますよ〜」という感じになるのでしょうね。 ……そんな裏事情の妄想はともかく。 136分と長めですが、長さを忘れさせる面白さです。まだご覧になっていないかたは忙しい年の瀬に突入する前にどうぞ。 
「先が見えるとイヤになって、先が見えないと不安になる」と言ってフリーターを続ける里中(宮藤官九郎)は、浅草の高齢者向けマンション「東京パティオ」のレストランでアルバイトをすることになった。 その第一日目、住人の藤原(田中邦衛)が急死。藤原の魂は里中の身体に乗り移った。 どうやら藤原には現世でやり残したことがあるらしい。 これはオンラインDVDレンタルで借りました。ご存じのかたもいらっしゃると思いますが、オンラインDVDレンタルではサイト上で予約リストを作っておくと、リスト上位から順番にDVDを送ってくれます。 ここしばらく自分の予約リストを見ていなかったので、届いたものを開けてみて、「『福耳』ってどんな映画だっけ?」「なぜ私はこの作品を選んだの?」と、しばし考え込みました。アホですね。 たぶん「宮藤官九郎」で検索をかけて、『福耳』というタイトルが気に入ってリストに入れたのだと思います。 それゆえ作品についての予備知識はゼロです。しかしこれはなかなか楽しめる作品でした。 福耳とは「耳たぶの大きな耳」のことで、福耳の人はお金がたまるなどと昔から言われていますね。 里中(宮藤官九郎)は福耳を持ってはいますが、フリーターです。高齢者向けマンション「東京パティオ」に勤め始めたのは、ご老人のお役に立ちたいというよりは、自分がそのマンションに入ることができて家賃が浮くし、マンションのスタッフの信長さん(高野志穂)に心ひかれたから、というわけです。 (ちなみに福耳は宮藤官九郎さんのナマ耳ではなく、特殊なメイクをほどこしたもののようです) いっぽう藤原(田中邦衛)の魂は、里中の福耳をいたく気に入って、その身体に乗り移りました。「東京パティオ」のマドンナである千鳥さん(司葉子)に想いを告げられないまま急死したため、この世に未練を残しているのです。 里中の身体には二人分の魂が宿っていますが、里中は信長さんに近づきたいし、藤原は千鳥さんに近づきたい。別々の行動を身体ひとつでこなさなければなりません。 しかし双方の女性には里中の行動が奇異に映って誤解を与える。千鳥さんを慕う男性たちも、若い里中にマドンナを取られてなるものかと実力行使に出る。というわけで東京パティオにちょっとした騒動が巻き起こります。 幽霊系コメディって目新しくはありませんが、間違いのない面白さがありますね。そして間違いのない感動がある。 藤原(田中邦衛)が千鳥さんの本当の想いを知る場面では泣かされたし、藤原と里中の別れの場面もよかったなあ。 ラスト近くで、藤原の甥が遺言にしたがって遺骨を海にまくシーンもキラキラしてきれいでした。しかし同時にものすごく切なかった。もし私自身が親族の遺骨を海にまくことになったら、ボロボロボロボロみっともないほど泣くだろうなあ。 さて本作は高齢者向けマンションを舞台とした映画なので、大ベテランの役者さんが多く出演しておられます。 田中邦衛さんの泣きの演技って凄いと思います。片目からツーッと涙が流れるんですね。号泣というわけでもないのに、かえって切なさがかもし出されるようです。 さらに凄いのは司葉子さんの美しさ。やはり女は何歳になってもこうありたいものですねえ。 そして……さらにさらに凄いのは宝田明さんの女装でございます。これは驚く。とってもおきれいでいらっしゃいます。一見の価値ありです。 
藩主の毒見役をつとめる三村新之丞(木村拓哉)は、貝の毒にあたって失明し、妻の加世(檀れい)の献身的な世話を受ける。しかし加世に男の気配を察して心おだやかではいられない。 黙して語らぬ加世の真意を探り当てたとき、新之丞が守ろうとした「武士の一分(いちぶん)」とは。 木村拓哉さん主演の映画『HERO』に沸く世間を尻目に、昨年末の映画を今ごろレンタルDVDで観ている私でございます。 この映画を観る人たちは、大まかに言って、 ・「私は木村拓哉ファンだから彼の出演作は絶対に見るの♪」という人 ・「キムタクってそんなにイイの?」とか、「キムタクにこういう渋い時代劇の主役が務まるのか?」とか、木村拓哉さんに対して何らかの疑問を抱いている人 の二通りに分かれるだろうと思います。私はどちらかというと後者。 いずれにしても、注目の的は木村拓哉その人に他なりません。 しかし映画を観て分かりました。これはあくまでも 山田洋次監督の作品であって、木村さんは作品の素材の一つにすぎないのです。 テレビ局では木村さん主演のドラマ制作が決まると、もう番組はそれしかないのかと言いたいほどに派手な宣伝をしまくります。そしてドラマを見ると木村さんがカッコよく見える演出がなされている。 そういう演出をしたくなるスター性が木村さんに備わっているのだろうし、それによって視聴率が上がるのだから、キムタク中心の番組作りをやめろというほうが無理な話ですけれど。 その点、山田監督は木村さんのスター性を野放図にまきちらさず、素材のひとつとして調理し、映画全体を見事な一品料理に仕上げているのです。 味つけは薄味ながら繊細で、笑いと涙の加減が絶妙。 これまで見えていた新之丞の目が急に闇に閉ざされることは、とても重々しい事態に違いありませんが、決して「重苦しい」作品にならないように、ほどよく笑いをとってガスを抜くんですね。 涙をそそる場面もすごくいい。 貝の毒にあたって視力を失った新之丞は、加世に目のことを黙っています。それでも加世は気づいてしまう。なぜ大切なことを言ってくれなかったのかと新之丞を責めます。 おまえを心配させたくなかったから、と言い訳をする新之丞に対し、加世は 「私はあなたのことを心配したいのでがんす! 心配したいのでがんす……!」と言って泣き崩れます。ここは私も泣きました。藤沢周平の原作小説にはないセリフですが、決して原作の味わいを損ねてはいないと思います。 原作の『盲目剣谺返し』は、【隠し剣秋風抄】に収録された50ページにも満たない短篇で、盲人となった新之丞が鋭い感覚で家庭内の微妙な異変を察するところから始まります。 毒見役のお役目の様子などは、さりげなく文中に織り込まれている程度で、そこは映画では多少の肉づけをされているものの、無理やり場面を増やした印象は全くありません。 すべての場面、すべてのセリフに意味があり、とても滋味ぶかい作品でした。 
時は正徳四年(1714年)。 七代将軍徳川家継の生母・月光院(井川遥)に仕える大奥総取締の絵島(仲間由紀恵)は、歌舞伎役者の生島新五郎(西島秀俊)と出会い、女心をふるわせた。 歴史に残る一大スキャンダルを豪華絢爛に描いた娯楽大作。 ご存じの通り、「大奥」とは江戸城の一角につくられた将軍の正室と側室の住居。 徳川家の繁栄のため、将軍の子を産めよ増やせよというわけで、考え方としては海亀や魚が無数の卵を産むのと同じだ。一人っ子では万が一のことがあったとき血筋が絶えてしまう。そうならないように子供を何人も生ませるわけです。 しかし人間の生殖行為には快感が伴う。盛りのついた女どもは大奥にウヨウヨしているのに、将軍は一人だ。将軍以外の男は大奥に入れない。上様がかまってくれないから代わりにご家老様お願いね、というわけにはいかない。 しかも七代将軍の家継はわずか5歳。女を抱く年齢には程遠い。 正室や側室に仕える女たちも、大奥という囲いを終の棲家(ついのすみか)として生きねばならない。 悲惨である。 大奥には女たちの満たされない欲求が蔓延している。これでスキャンダルを起こすなとか、女どうし仲よくやれよなんてことは無理だ。 大奥総取締の絵島が役者の生島新五郎を見てメスの本能を呼び覚まされるのも当然だろう。 ただ主役を演じるのが今をときめく大スターの仲間由紀恵さんだから、ここは「純愛」というふうに描かなければならない。 話はそれだけだ。 ならば美しい嘘を見てきたように語ってくれればいいものを……。 嘘くさい嘘ばかりが並べられている。無駄な場面が多く、間が無駄に長く、126分の作品が3倍ぐらいの長さに感じられて退屈。 巨額の製作費を投じ、派手に宣伝しまくったわりに、内容は惨憺たるものでした。 
阿修羅めざめる時さかしまの天空に不落の城うかび現世は魔界に還る。 ……あ、「現世」は「げんせ」じゃなくて「うつしよ」と読んでください。 出演は宮沢りえ、市川染五郎、渡部篤郎、樋口可南子、小日向文世。 外連味(けれんみ)たっぷりに見せてくれる、エロスと血のにおい漂う作品。「やさぐれた天空の城ラピュタ」というか、「邪悪なロミオとジュリエット」というか、「ウルトラスーパーモダン歌舞伎」というか。 お子ちゃまは見ないでください。私、こういうものを子供時代に見たら、恐怖の記憶だけが後々まで残りそうです。そういう意味では大人になって良かったなぁ。こういうの、面白いもんなぁ。 「阿修羅」とは簡単に言えば「闘争を好む悪神」。こやつを倒さねば現世が魔界と化しますが、では誰が阿修羅を倒すのか。ウルトラマンのような正義の味方は一人も登場しません。 現世には人間の姿をした鬼たちが溢れている。それを駆逐せんと目を光らせているのは闇奉行の「鬼帝」(おにみかど)。鬼を見つけるや否や「わははははは」と狂ったように笑い、ばっさり刀を振りおろす。 こんな「鬼帝」こそが本当の鬼であります。右も左も鬼ばっかりの現世。 かつては鬼帝の副長で、「鬼殺しの出門」と異名をとった男(市川染五郎)は、現世では歌舞伎役者の病葉出門(わくらば・いずも)として生きている。 女には不自由しない色男の出門が、「つばき」と名のる美しい女(宮沢りえ)に出会って心が騒ぐ。女には5年前の記憶がない。白い肩には不思議な形の赤い痣がひとつ。 この女、どこかで会ったことがある――出門は女との出会いに運命的なものを感じます。 いっぽう、鬼帝の邪空(渡部篤郎)は、童女の姿をした阿修羅が強い男との出会いによって邪悪な力に目覚めることを知り、阿修羅の力を己のものとし天空を支配せんと企む。 では阿修羅を目覚めさせる強い男とは誰なのか。阿修羅となる女はどこにいるのか。もしや赤い痣を持つあの女ではないのか。 というわけで出門と邪空は一人の女をめぐって争うことになります。 それにしても、女が男に身も心も深〜く愛されて阿修羅に変身しちゃうとすれば、その女は男を恨むのでしょうか。それとも愛するのでしょうか。 男は女に恨まれても後を追いかけていくのでしょうか。女は男を恨んでも追いかけられたら悦ぶのでしょうか。 男は歌舞伎調で女にこう言います。 「手練手管でイかせてやるぜ! あの世へな!」 いやーん♪ ……いやがってるのか悦んでるのかハッキリせい、という話ですね。でもハッキリ分かっちゃったらそれは恋じゃないなと思うわけです。 恋の悦びは苦しみの影を落とし、恋の苦しみは悦びの甘い後味を引く。そういうものではないかしら♪ 女は深い刀傷を負って出血が止まらぬ男の身体に抱かれ、自分の中に棲む何かが目覚めるのを感じます。 その様子を芝居のネタにしようと、劇作家(小日向文世)がギラギラした目で覗いています。ここがいちばん怖かった。 男と女の恋模様を、鬼が鬼を斬り捨てる様を、面白いとか面白くないとか言って見ている目。 それはこの映画を観ている私の目だと気づいたら、背筋がさっと冷たくなりました。
クリント・イーストウッドがメガホンをとり、太平洋戦争中の硫黄島での激戦を描いて話題を呼んだ作品。 主なキャストは下記の通り。 栗林(陸軍中将) 渡辺謙 西郷(陸軍一等兵) 二宮和也 西(陸軍中佐) 伊原剛志 清水(陸軍上等兵) 加瀬亮 伊藤(海軍大尉) 中村獅童 花子(西郷の妻) 裕木奈江 現在の硫黄島は東京都小笠原村に属する。米軍の施設と海上自衛隊の基地があり、上陸には東京都の許可が要る。 もちろん観光目的ではダメで、上陸許可がおりるのは慰霊、遺骨の収集、戦史の研究、学術調査、基地の改築などに限られるようだ。 映画は、おそらく硫黄島で遺骨かなにかを収集する人々が、地面に埋まった物体をスコップで掘り出す姿から始まる。 スコップがズームアップされ、場面は切り替わって戦時中の硫黄島となる。 西郷(二宮和也)らが塹壕を掘っている。 「塹壕(ざんごう)」を広辞苑でひくと、「野戦で敵の攻撃から身を隠す防御施設。溝を掘りその土を前に積み上げたもの」と出ている。 しかし、溝を掘ったくらいで米軍の攻撃を防ぎきれるものだろうか。 新たに硫黄島守備隊の指揮官に着任した栗林中将(渡辺謙)は、米軍の強さをよく知っていたから、塹壕を掘る作業をやめさせ、計画を練りなおすが…… 他の将校たちは栗林中将の計画に反対し、守備隊の指揮系統は大いに乱れる。 いくらトップが立派な人でも、中間管理職がアホだと、最下層の人々は困る。 戦時中だから、困るどころの話じゃない。生死を分ける大問題になる。太平洋戦争の結果を知っている後世の私たちには、「仲間割れしてる場合じゃないんだよ……!」と突っ込みたくなる光景だ。 案の定、硫黄島に攻め寄せてきた米軍は、量も質も日本軍を遥かに超えていた。 日本軍は武器どころか食糧や飲み水にさえ事欠く有様。 なのに、なぜ日本はアメリカと戦争なんか始めちゃったんだろう……。 それについては半藤一利先生の【昭和史】をご参照あれ。 さて硫黄島守備隊の面々は、故郷の家族に宛てて手紙を書く。栗林中将(渡辺謙)は子供たちを想い、西郷(二宮和也)は出産したばかりの妻(裕木奈江)を想う。 手紙を書いても、戦時中のことだから無事に届くかどうか分からない。それでも彼らは手紙を書かずにはいられない。 守備隊の奮闘も虚しく、硫黄島に最期の時が迫る。栗林中将は彼らの想いが詰まった手紙を西郷に託した。 クールな演技を通してきた二宮和也が、ラストシーンで感情を爆発させる。 中村獅堂の演技も凄みがあった。このかたは演技の幅が広いですねえ。良い役者さんなんだから、あまり週刊誌のネタにならないように私生活を引き締めてもらいたい。 渡辺謙は安定感がありますね。映画『ラスト・サムライ』も渡辺謙がいなきゃ箸にも棒にもかからない作品になっていたのでは……と個人的には思う。 ところで『ラスト・サムライ』では武士の着物や小道具などが微妙に変で、ものすごく違和感があって仕方がなかった。あれでハリウッドの人たちは「完璧!」と思ったのだろうか。日本人だって時代劇を作るときは、詳しい人に時代考証をお願いするのに……。 でも本作では『ラスト・サムライ』のときのような違和感はない。聞くところによると、【昭和史】の半藤先生からもお褒めの言葉が出たらしい。 シンプルなストーリーながら心に強く訴えかける作品であった。 イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』も見てみようかと思ってます。
原作小説そのままの穏やかな空気感。 穏やかさの背中をなでるように、ひとすじの寂しい風が吹くところもまた良し。 ただ、ストーリー的には、小説と映画を合わせて初めて一つの作品になるのかもしれない。 小説では、主人公の「サチエ」がフィンランドで「かもめ食堂」の開店にこぎつけるまでのプロセスが丁寧に描かれている。資金のこと、保証人のこと、法律のことなど、サチエが自分の持ち駒をうまく生かして一つ一つ問題を解決していく姿が前向きで、すがすがしい。 小説【かもめ食堂】の感想は こちら。 一方、映画では食堂開店後のエピソードが中心。 サチエ(小林聡美)が開店資金をどうやって集めたかという疑問は、映画だけを観ても解決しない。 やがて食堂を手伝うことになるミドリ(片桐はいり)とマサコ(もたいまさこ)は、自分の意志でフィンランドへ来たサチエと違い、なりゆきで流れ着いちゃった人々。背負っている事情が、ちょっと哀しいのである――が、そこらへんも映画では深く突っ込まない。 女性3人の「過去に何があったか」よりも、むしろ「これからどうするか」に意識が向いているような気がする。 3人とも独身で若くない。ある程度のお金はあるにせよ、「フィンランドで食堂を開店しました♪」「女3人で仲よくやってます♪」、だからといって「めでたし、めでたし」という単純な話にはならない。 3人のうち誰かが日本へ帰るかもしれないし、かもめ食堂の経営が傾くかもしれない。女3人の楽しい日々が、このままずっと永久に変わらずに続くとは限らないのだ。 心配性で寂しがりやのミドリが、先のことを不安に思い、サチエに自分の気持ちをちょっと吐露するシーンがある。 ミドリは「大丈夫」とか「私はずっと一緒にいるから。だって友達だもの」みたいな言葉を期待しているのだろうが、人生を達観しているサチエは、「わからない」とか「人も物も時間とともに変わるものだよね」としか言わない。 ちょっと寂しい。 ただサチエは、決して突き放してはいないし、ミドリを良い友達だとも思っている。 でも先のことは本当に誰にも分からない。変わりゆく人の心を変わらないように固定しておく術はない。 「ずっと一緒にいるから」と言っても、一緒にいられなくなる事情ができるかもしれない。「あのとき『ずっと一緒にいるから』って言ったでしょ! 裏切るの?」とか言って逆上するのは愚かさの極みだ。 (そういう人って最近、多いのかもしれないですね。男女の痴話げんかの果てに殺傷したりとか、そんな痛ましい話を、ときどき見聞きする) 「なにが起こっても大丈夫」と達観して、「今」をちゃんと生きること。 文字で書いてしまうと何だか偉そうだし、私が達観しているのかというと、そこもまた微妙なんだけど。 人生の極意ってそういうものかもしれません。 極意、なんて偉そうだなぁ……。冷汗かきそう。でもうまい言葉が見つからなくて。 なんだか恐縮しつつ今回のレビューを結びます。
人気脚本家の三谷幸喜が脚本を書いた舞台作品を、みずから監督をつとめて映画化。 みや子(鈴木京香)はラジオドラマの脚本コンクールで入賞し、その受賞作の放送日を迎えて喜ぶが、主演女優のワガママや、他の出演者たちの注文や、スポンサーの都合で脚本がどんどん書き換えられる。 みや子自身の意向は無視され、すでにナマ放送が始まっているというのに、プロデューサーやディレクターたちがその場の思いつきで脚本を変える。 最初は言葉を入れ替える程度で済んでいたが、だんだん結末や設定までもが変わってしまう。辻褄の合わないところが次々と出てくる。脚本の差し替えが間に合わないときは、CMやテーマソングを流したり、タレントのアドリブに頼ったりしてごまかす。 その必死さが可笑しい……が、関テレの『あるある大事典』データ捏造問題が取り沙汰されていることを思うと、ちょっと微妙な気分にもなる。 しかしラジオ局のスタッフの一人が、「このままじゃダメだ!」と立ち上がる。 もう脚本はストーリーの原型をとどめないほどグチャグチャに書き換えられているが、みや子がどうしても譲れない最後の一線だけは守ろうと、ある秘策を講じるのだ。 シャツの上にサマーセーターを、マントみたいに背中にかけてる、いかにもチャラついたファッションの男なんだけど、やはり人としての良心がうずくわけだね。なかなか爽快なエンディング。 それはそうと出演者の顔ぶれは、そうそうたるもの。「こんな役にこんなビッグな役者が!」と驚くこと幾たびか。 撮影はスタジオ内で済ませたものと思われ、海外ロケなんてのはワンシーンも見当たらない。 ということは、この映画の制作費の大半は、出演者のギャラになったのではないだろうか。
昔、「人造人間キャシャーン」というテレビアニメがあったよね――とは私の勘違いで、正しくは 新造人間キャシャーンです。人造人間は「キカイダー」であった。 |