子供のころから勉強はできたが、覇気も度胸もない。ただ顔立ちの良さで女性の心をひきつけ、数々の女難に遭ってきた、ジャーナリストのパトリック・ウォーリングフォード。 アメリカ三大ネットワークのうちの二つを経験し、あるニュース専門ネットワークへ移ったが、大事件に巻き込まれて左手を失ったことで彼の人生は一変する。 評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) ウォーリングフォードが女たちと寝る場面も、左手を喪失した悲惨この上ない大事件も、きわめて乾いた筆致で描かれます。 たしかに彼は気の毒ですが、自分から災難を引き起こす傾向もある人。離婚の原因は彼の浮気だったし、仕事でも女性関係が影響する。もともと報道というものの在り方に疑問を持っていたこともあり、彼はつくづくジャーナリストの仕事が嫌になります。 そんな中で人生をともにしたい女性を見つけた。プロポーズしようと思う。なのにフラフラっと別の女性と寝てしまいます。いつになったらウォーリングフォードは人生を真面目に考えるようになるのか。あるいは本人としては真面目なつもりでも、先々のことを考えて行動するのが苦手なのか。 情けない男ですが、そういう彼だからこそ女性の母性本能をくすぐるのかもしれず、まあ次から次へと磁石にクギが引き寄せられるように女性たちが近づいてきます。 運命か必然か、ウォーリングフォードの人生に起こる数々の嵐。その中でも心やすらぐ安住の地を彼は得ることができるでしょうか。 あんまり深刻ぶったところがなくて、笑えて、それでいて心に残る作品でした。 作中にマイケル・オンダーチェの小説『イギリス人の患者』が登場するのがちょっと嬉しかった。これは大好きで、映画のDVDも持っています。 
大学生のリョウがバーテンダーのアルバイトをする店へ、ホストのシンヤが御堂静香という女性客を連れてきた。 静香はリョウに、会員制クラブ "Le Club Passion" で働いてみないかと持ちかけた。 大学にも友人にも家族にも恋愛にも持てなかった「情熱」を、リョウはクラブで探してみようと心を決める。 評価=☆☆☆ (5つ星が最高点です) "Le Club Passion" の会員は女性です。そしてリョウを始めとする若い男性が会員のお相手をします。 ホストクラブと大差ないじゃないか――と思いましたが、よく考えてみれば、ホストクラブに勤めても逮捕はされないが、"Le Club Passion" の存在が明るみに出れば間違いなく警察ざた。そこが大きく違います。 リョウは娼婦ならぬ「娼年」であります。料金が高いので、会員になるにはそれなりの財力が要るし、ヘタをすれば警察のお世話になり、社会的地位を失う危険性が大いにある。 それでも会員たちがリョウを求めてやまないのは、リョウが彼女たちのアブノーマルな欲求を「かわいい」とさえ言って受け入れてしまうからでしょう。 ノーマルであれ、アブノーマルであれ、世のすべての女たちが男たちに望むことは「私を丸ごと受け止めてほしい」という一点に尽きると思います。 結婚しても仕事はつづけたいの、とか、あたし料理は得意じゃないのよ、とか言われても、たとえベッドの上で尋常ではない要求をつきつけられても、「ボクはそれでも構わない。そんなキミが好きなんだ♪」と言える男性が女たちの理想であるわけです。 とはいえ、男性の側にも「ここまでは受け入れられる」という許容範囲があるはずです。 リョウは、「大学にも来ないでオバチャンたちに身体を売るのねっ! 不潔よっっっ!」とか叫ぶような若い女の子はダメみたい。 逆に、"Le Club Passion" の会員である年上の女性たちにあれこれ求められるのは平気なんですね。きっとリョウにはマザーコンプレックスの傾向があるのでしょう。 それは本書の冒頭部にあるリョウと実母とのエピソードから察せられ、これが物語の伏線のひとつになっているのですが……うーむ。後半で充分に生かされているとは思えません。意外に肩すかし。 あまり小難しく考えずにポルノとして楽しむべき作品かと思います。 
9歳の夏に死体となった「私」を隠そうと、奔走する子供たちの奇妙な冒険を描くホラー小説。 表題作のほか、『優子』を同時収録。巻末の解説は小野不由美。 評価=☆☆☆ (5つ星が最高点です) 私にとっては初読みの乙一作品。 乙一は16歳でこの作品を執筆し、17歳で「ジャンプ小説・ノンフィクション大賞」を受賞してデビューを果たしたそうです。巻末の解説に書いてありました。 そういう情報を知らずに読み始めて、なんだか文体が稚拙だなあと思いましたが、16歳で書いたものなら立派です。そもそも小説の構成を考えることが、並みの16歳にはできない。(16歳を遠く離れた私にも無理) 面白いのは物語が「私の死体」の視点で語られること。死体はある場所に隠されますが、そこから遠く離れたところにいる母親や捜索隊の様子を「私」が語るわけです。 最初のうちは違和感があったものの、慣れてくると、身体と視点が離れてフワッと空中に漂う感じがホラー小説っぽいなあと思いました。最後まで読むと、やはりこの視点が必然だったなと納得できました。 ただし語り口に難がありますね。9歳の「私」になりきれていない。9歳の子供らしさではなく、著者の16歳の稚拙さが出ている気がします。 評価は☆2つにしようかと思いましたが、16歳のデビュー作ですし、これ一作で終わらず現在も活躍中の人気作家さんということで1つオマケしました。 
15歳の楠本千織は、各地の孤児院や老人ホームなどを慰問してまわるピアノ奏者。 知的障害のある千織をサポートする如月敬輔(きさらぎ・けいすけ)は、ピアニストの将来を嘱望されながら、ある事件をきっかけに道を断たれた過去を持つ。 二人が山奥の診療所を訪れ、不思議な出来事に遭遇する四日間を描くファンタジー。 2002年の第1回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作。吉岡秀隆と石田ゆり子の出演で映画化。 評価=☆☆☆ (5つ星が最高点です) 「四日間」とはいえ含まれる情報量は膨大ですね。幼いころからピアノ漬けだった敬輔の生い立ちや、千織との出会い、ピアニストの道をあきらめた事情が、回想のかたちで事細かに描かれます。 千織に知的障害があるということで、脳に関する医学的な話は避けて通れないし、二人が訪れる「山奥の診療所」が設立された事情も、やや込み入っています。 診療所に勤務する岩村真理子という女性が、千織や敬輔と深く関わることになりますが、彼女の生い立ちもストーリーに絡み、最終的には「なぜ人は生きるのか」「人生の意味とは……」みたいな哲学的なところにまで話が及んで、読後には並々ならぬ満腹感がありました。 たとえて言えば、五目御飯をぎっちり詰めた稲荷ずし四つ食べちゃった、というところでしょうか。 味はすごくいいと思いますよ。なんといっても完食したわけですから。 いっぱい張ってある伏線がちゃんと片づけられていくし、小難しげな話もきちんと読めば意味がわかる。きっとラストで感涙にむせぶ読者は多いのでしょう。 ただ私としては、書かれた言葉の外側に漂う空気みたいなものを味わいたいので、ときどき本から目を離してボーッと思いをめぐらせる余裕があれば……と思わないこともない。(私の脳みそが膨大な情報量を処理しきれないというだけの問題かもしれません) まあ作品の出来とは別次元の話ですけど。 さらに別次元ついでに言えば、かつて私の身内にも病院で長く療養した者がおり、そういう現実を見たことで、この手のファンタジーについては深く感情移入せずクールに読む傾向が、私の中にあるようです。 (逆に、似た経験があるからこそ本書に感情移入する人もいるでしょう。読み手によってそれぞれだと思います) もうひとつ言っちゃうと、この本、あんまりミステリーっぽくないけど「このミス」大賞なんですね。 私自身はジャンルに関係なく面白い本が読めれば幸せな人間なので構いませんが、栄えある第1回の「このミス」大賞ですものね。審査員の意見が割れたりしなかったのかなあ……。 そう思いながら巻末の解説に再び目を通してみると、「あまりミステリー的ではないが作品の素晴らしさに打たれた」という意味のことが書いてありました。ふむ。なるほど。 本書は映画化されて吉岡秀隆が主演したとのことですが、私は見ておりません。 しかし本書を読んでいる最中に、たまたまテレビに映っていた国分太一を見たら、脳内で主人公の顔がすべて国分太一に変換されてしまいました……。 妄想読書人の「ながら読書」は因果なものでございます。 
ちょっとした偶然がつくりだす、忘れられない瞬間を淡々と綴るエッセイ集。 著者みずから目次を組んだ独自編集。翻訳は柴田元幸。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) オースターさんの貧乏生活、ご本人にはさぞ辛かったと思いますが、これが読むと面白い。 若いころから作家になりたいという気持ちはあったものの、「とりあえず一般企業で働いて生活費をかせぎ、あいた時間に作家活動をしよう」なんて、さらさら考えてなかったみたいです。 貧乏生活の最大の原因は、オースターさん自身にあったわけですね。 かといってご自身を責めるわけではなく、痛々しい悲壮感もなく、「若いころのオレってバカだったな〜」という軽い笑いを含みつつ、力いっぱい走りつづけた青春時代を懐かしむお気持ちが見受けられます。 いい本です。 訳者あとがきによりますと、オースターさんのエッセイ集は英語圏で増刷されるたびに収録エッセイ・インタビューが増えていて、このようなやりかたにオースターさん自身は納得なさっていないとのこと。 本書は「日本で次にエッセイ集を出すならこうしてほしい」というオースターさんの希望のもとに出されたものだそうです。 オースターさんが"True Stories"という本を書き、それを柴田さんがそのまま訳したというわけではありません。原書で読みたいとお考えのかたはご注意を。 
長編の申し子アーヴィングが贈る唯一の短編&エッセイ集。表題作『ピギー・スニードを救う話』ほか8編を収載。翻訳は小川高義。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 「短編&エッセイ集」ですが、収載されている8編のうち、どれがエッセイでどれが短編か、ちょっと区別しにくい気がします。おそらくこれはエッセイだろう、こっちは小説だろう、と見当をつけて読みましたが、面白いので、結局はエッセイと小説の区別なんかどうでもよくなりました。 さて本書のタイトルにもなっている「ピギー・スニード」は哀れな死に方をしますが、彼を「救う」ことがアーヴィングの創作の動機になったというのです。 何をどうやって救うのかは本書で読んでいただくとして、小説を書くってこういうことなんだなと、しみじみ思い至りました。 物理的には全く救いになっていない。しかしピギーを小説のネタにしたからといって書き手が心を痛めていないのかというと、そうではありません。むしろ心が痛むからこそ書くわけでしょう。 そういえば、ある小説で登場人物がホームレスの人を殺してトリックに利用する場面があり、そんなことを小説に書くのは倫理的に正しいのか、人権を踏みにじることではないかと、某所でかなり声高に主張しておられたかたを見かけたことがありました。 ご主張そのものは分からなくもないのですが、なにか釈然としないものが残ります。しかし、そのかたに本書をお読みいただいてご一考を……とは思いません。そのかたがアーヴィングの考え方に共感するなんてことは永遠になさそうですから。 
大正時代の東京。造り酒屋の一人娘である17歳の茜は、父親に文楽見物へ連れていかれ、みごとな三味線の響きに心を奪われた。 「お父さま、この三味線は、誰ですか?」 「露沢清太郎だよ」 心に深く刻み込まれた男の名が、その後の茜の人生を大きく左右する。 評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 茜という女性は、要するに面食いなんですな(笑)。 17歳のとき、眼病(どんな眼病なのかは不明)で目が見えない状態で、まず露沢清太郎の素晴らしい三味線の響きに惚れた。 やがて恋の力なのか何なのか、またたくまに眼病が治り(それも凄い話ですが)、清太郎の顔を見たら超イケメン。茜は世間を知らないお嬢様です。これで恋に落ちるなと言うのが無理な話。 そして清太郎は妻子も愛人もいる身なのに茜を抱いてしまう。彼にとっては幾百夜のうちの一夜にすぎませんが、茜にとっては一世一代の夜です。 もちろん妻子がいる男とは結婚できませんから、茜は強制的にお見合いをさせられますが、初めての男がイケメンの芸人では、見合い相手がカボチャか何かに見えて仕方ない。 このあと20年を茜は独身で通し、清太郎が妻を亡くしてから後妻に入るのです。 清太郎は気難しい芸人であるうえ、先妻との間に9人の子供がいて、別れた愛人たちも何かと言いがかりをつけてきますし、茜は気の休まる暇がありません。 巻末の解説で、三浦しをんが主人公の茜について「自由の体現者」と書いていますが、私には茜があんまり自由そうには見えません。 茜は自分の欲求から逃れられずに重荷を背負っちゃってる人だと思います。 たしかに清太郎は一流の芸を持ち、顔もきれいでしょうけど、家庭人としては完全に失格です。そんな男のことなど忘れて、カボチャでも何でもいいから、とっとと結婚すればよかったんです。 ところが茜にはそれができない。ああ面食い女の浅はかさ。 なにものからも自由な人間なんて一人もいません。とくに自分の欲求からは誰も逃れることができない。ならば道は二つに一つ。きっぱり切り捨てるか、背負いつづけるか。 茜は背負いつづける道を選びました。 本書の前半では「この女、アホか」と思う部分もあるものの、後半では、芸人の妻として苦境を乗り越えていく茜の姿に潔さを感じます。 
「わたくしの目には、どのように美しい宝石でさえ、お后さまのお美しさの前には、ただの石塊(いしくれ)としか映りませぬ」 そう言ってツルは后の心をつかみ、生まれたばかりの第一皇子の乳母となった。 やがて王の愛人を処分する役目を担うようになり、その力は単なる乳母の立場を超えていく。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 后はツルの尽力で国王へと上り詰めますが、その実はツルの意志でいかようにも操れる人形にすぎません。もちろん物語の主人公でもありません。 では主人公はツルなのか。 ツルという名前は単に記号であって、本当の主人公は人間の心の奥底でうねる強烈な欲望なのかもしれません。 短めの24章で綴られる、世にも怖ろしくおぞましい物語。 これ以上の詳しい説明は不要かと思います。まずはご一読を。 
女ひとりも、結構、楽しい。みずみずしい感性で何気ない日常を描く、石田千の第一作品集。 お名前を見ただけでは女性か男性かわからないし、文体もどことなく男っぽいと言えば男っぽいのですが、本の帯に「女ひとりも、結構、楽しい」とあったので、ああ女性なんだ、と気づいたしだいです。 なんでもない描写の中に、鋭い観察眼が光ります。 お酒が好きで、料理もお上手なかたのようで、食べ物系エッセイをこよなく愛する私にとっては至福の一冊でございます。 コロッケ食べたい♪ 「われせん」食べたい♪ う〜ん。空腹感。 
埼玉の新興住宅地で起こった誘拐事件は悲惨な結末を迎え、さらに周辺地域で類似した事件が頻発した。 富樫修は顔見知りの子供が被害者になったことを驚き悲しむ一方、わが子が狙われなくてよかったと胸をなでおろす。だが想像もしなかった形で事件に巻き込まれ、絶望の淵に突き落とされる。 ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱。これを開くと中から災いが飛び出し、あわててフタを閉めたら希望だけが残った。 これがギリシア神話で語られる「パンドラの箱」です。 ちなみに私のハンドルネーム「ぱんどら」はギリシア神話とは無関係。あるとき吉川晃司ファンサイトを作ろうと思いたち、吉川晃司のアルバムタイトル 【PANDORA】からとってサイト名を 「ぱんどらの箱」と名づけました。当ブログは、そもそも「ぱんどらの箱」のコンテンツの一つとして始めたもの。そしてサイト名とハンドルネームはつながりがあるほうが人に覚えられやすいだろうと考え、以来「ぱんどら」と名のっておる次第でございます。 私的な話はさておき、本の話を。 主人公の「富樫修」は、自分が事件に巻き込まれるとは思ってもみませんでしたが、実は富樫が知らないところで事件の種は確実に芽ぶいていました。 種が芽ぶく前に掘り出すことはできなかったか。あるいは芽が大きく成長する前に摘みとることはできなかったか。富樫は自問自答をくりかえしますが、どんなケースを思い描いても不幸な結末に至るばかり。 まるで「パンドラの箱」から数々の不幸が飛び出して富樫に襲いかかるかのようです。 では最後に残った希望とは何なのか。不幸のサンプルが山ほど提示された後で、どんな希望が残るというのか。これは難問です。 500ページという大部ながら一気に読ませる引きの強さがあり、読後に重い衝撃を残す作品でした。 
「ぼくひとりでたのしむのは、もったいないので。経験を盗んでください」 糸井重里が各界で道を究めた達人との座談から得た、「隠し財産」のごとき経験の数々。 たとえば有名な料亭で板前修業をする若者が、師匠にこう言われます。 「お前たちに手取り足取り教えることはしない。味は盗んで覚えろ!」 そこで若者は厨房で与えられた仕事をしっかりこなしつつ、一瞬の隙をみて、師匠が切り分けている料理をツマミ食いし、その味を自分の舌に覚えこませる。 「経験を盗む」という言葉から私が想起するのは、そういうピリピリしたイメージですが、本書にはもっとゆるい空気が流れています。 わるく言えば、タイトルと中身が違うんじゃないか、本書に登場する人たちの「経験」が、あまりに凄すぎて盗みようがないんじゃないか……と思うわけです。 たとえばビジネスの成功を目標とする人が今すぐ真似て効果が上がる経営上のノウハウとか、そういう具体的・実践的な話はありません。 でも本当に凄い経験をなさってきた方々のお話だから、面白いことは確かです。 それに糸井さんは頭がいい。達人が話すことを「それはこういうことですね」というふうに、うまくまとめるんですね。すると達人も「そうそう。そうなんです」と、理解されたことを喜び、さらに話が弾みます。 こういう本を少しずつ面白がって繰り返し読んでいくうちに、「あっ、これだ!」と閃くものがあるかもしれない。そもそも本とは即効性・実用性ばかりを求めて読むものではありません。 ゆったりした気持ちで読みましょう。面白いですよ――と私がお勧めするよりも先に、お読みになったかたは既に大勢おられるかと思います。 実は私、この本にしても「ほぼ日手帳」にしても、どうも糸井さんくささが前面に出すぎてて、ちょっと敬遠してたんですよ。 有名人の名を冠した「夢を実現する手帳」みたいなものが世間にたくさん出まわってて、それとは逆に「もう少しゆるくいこうよ」という感じで、糸井さんの「ほぼ日手帳」が出ましたよね。 有名人の名前をつけ、その手帳を持つことで平凡な毎日が変わるかもしれないという「イメージ」を売る商売は、「夢手帳」の類も「ほぼ日」も同じだな……と個人的には思っておりました(笑)。 この『経験を盗め!』という本も、中身は普通の座談であるにも関わらず、タイトルが秀逸です。いかにも「読めば何かいいことがありそう」な気がしますもの。 糸井さんって商売上手ですよねえ……。 こういう糸井さんの発想こそが、この本から「盗む」べきビジネスのノウハウではないかと思います。 だからといって簡単に盗んで真似できないところが、糸井さんの凄さ、とも言えるのですけどね。 
夏目漱石から「セカチュー」まで、20世紀のベストセラーをたたき斬る。 『ダ・ヴィンチ』2002年9月号から2004年4月号の連載に大幅な加筆訂正を加えて刊行された辛口ブックガイド。 豊崎さんというと、芥川賞&直木賞を斬るネタでいつも怒ってらっしゃるイメージがつきまといますが、本書では「この本、面白いわ〜」とかおっしゃって楽しそうです。ときどき語尾に(笑)がつきます。 なんだかホッとしました……。 けっこう面白いですよ。書評家バージョンの「エンタの神様」みたい。 私なんかヘナチョコ読者だから、明治・大正の文豪が書いた名作も、現代のベストセラーも、気が向かない限り手を出しませんが、岡野さんと豊崎さんは「読むのが苦痛でした」などとおっしゃりながらもキッチリ読みきっておられます。 読後も「面白かった」「つまらなかった」だけでは書評にならない。なにか面白いネタにしなきゃいけない。 プロの書評家も大変だ。 ただ、こういうネタは雑誌の連載で細切れに読むのがいいのかもしれない。 一冊の本だと似たようなネタを延々と読まされるわけで、こらえ性のない私は途中で飽きました。お笑い芸人さんも変化がないと飽きるもの。 
平成9年に亡くなった藤沢周平の父としての姿を娘の目から描く一冊。 お父さんの思い出を、娘さんが素直な言葉で綴っておられます。 素朴で、だけど間違いなく美味しい家庭料理って感じですね。 ほっとします。 
江戸時代後期の紀伊。外科医の華岡青洲は、日本で初めて全身麻酔による手術を成功させ、歴史に名を残した。 その栄光に至る道のりは過酷であった。青洲は麻酔剤「通仙散」を完成させるために人体実験を必要とし、母と妻は進んで自らを実験に捧げたのである。 私が中学3年のときの話ですけど、バスケット部の人たちが後輩に対してあまりにも厳しすぎるというので、先生から注意を受けたことがありました。 私はバスケット部ではなかったので、どんなふうに厳しかったのか具体的には知りませんが、先生が見て注意するくらいですから、よほど目に余る状況だったのでしょう。 注意された部員は先生に何と言ったか。 「あたしたちも先輩に厳しくされてきました。後輩に同じことをするのは当然です」 こういう考え方だから、悪しき伝統を途中から消すのは難しいんですよね。 いわゆる体育会のノリが全面的に悪いとは思いません。先輩方に正しく鍛えられたおかげで、ぴしっと感じのいい人たちを何人も見たことがあります。 鍛えるのと苛めるのは違います。そんなことは誰でも理屈では分かっている。 だけど、「鍛えてやるよ」という先輩らしい気分の中に、苛めの気分が混ざることがあると思うのです。 あるいは、鍛えてやる・教えてやるという大義名分のもとに堂々と苛めをおこなうことが、あると思うのです。 たとえば本書における「華岡家」の場合。 せまい家で大家族がひしめきあうように細々と暮らし、青洲が医術を学ぶための費用を家族みんなで頑張って工面しています。 美談ではありますが、本人たちにしてみれば楽ではありません。ストレスが溜まります。 そこへ嫁がやってくる。 姑は「医家の嫁としての心得」を教え込む体裁をとりながら、その実は嫁にストレスをぶつけます。頭がよくて美人だと近所でも評判の姑ですが、そのぶん嫁に対する苛めは巧妙で陰にこもっています。 嫁は実母に苦境を訴えますが、「私も若いころはお姑さんに厳しく言われたものよ……」と慰められるぐらいのもの。実家から嫁ぎ先に物申すわけにもいかないでしょうしね。 それにしても理不尽このうえない。たとえば早く跡継ぎが欲しければ、夜は新婚の夫婦を二人きりにしてあげればいい。なのに、この姑ときたら「あんたはこっちに寝なさい」っつって夫婦を別々に寝せちゃうの! たまに夫婦が床をともにして、嫁が声なんか出した日にゃ……(以下自粛)。 さて華岡青洲は麻酔剤の動物実験をくりかえしますが、最終的には人間に試さないと効果が分からない。 すると嫁と姑が「私を実験に使って!」「いいえ私を!」と争いを始める。 互いの身を案じているのではありません。 「もしお義母さんに何かあったら」「もし嫁に何かあったら」――残った私は近所の人たちに何と噂されるか分かったものではない。そんな考え方です。 青洲は研究に没頭していて二人の真意に気づかないのか、それとも気づかないふりをしているのか。よく分かりませんが、結局は二人それぞれに違う薬を与え、実験をおこないます。 当然ながら二人それぞれ別の結果が出て、そのことが二人の心を傷つけ、さらに薬の悪影響が身体を蝕みます。 この嫁・姑戦争は一応の決着を遂げますが、負けた側の怨念、勝った側の優越感とその後に続く苦い後味を、有吉佐和子の筆致は「これでもか!」っちゅうぐらいにエグり出します。負けたほうは悔しいけど、勝ったら勝ったで別の重荷を心にかかえて一生をすごすんですね。 そして青洲に対しては、「妻にも母にも物を言えない情けない男!」と言わんばかりの書きっぷり。 でも私には、青洲が男として誰に何と言うべきだったのか分かりませんし、たとえ青洲が何かを言っても女ふたりの争いがおさまったのかどうか、よく分かりません。
青森県金木町(現:五所川原市)で大地主の六男として生まれ、弘前高校から東京帝大へと進んだ青年は、やがて作家・太宰治となり、数度の自殺未遂を繰り返した果てに入水心中をはかって世を去った。 謎の多い人生を膨大な資料をもとに解明する評伝ミステリー。 たぶん高校生のときだと思いますが、国語の教科書に『富嶽百景』の一部分が載っていました。 井伏鱒二の世話で山梨県の石原美知子という女性とお見合いをすることになった太宰が、井伏と二人で山に登るんですね。 太宰は麦藁帽子をかぶりドテラを着たムサ苦しい姿。井伏の颯爽とした軽装を見ると、自分の姿がいかにも恥ずかしい。すると井伏が、男は見た目なんか気にするな、といった意味のことを言って云々……という部分だったと記憶しています。もしや誤記があるかもしれませんのでご容赦を。 とにかく国語の教科書で読んだ太宰の姿は「これからお見合いだし、オレは作家としても一人の男としても頑張って生きていくぞ」みたいな、すごく前向き感にあふれた印象がありました。 井伏鱒二も若手の作家にお見合いを世話してやるなんて、いい人だな〜、なんて思ってました。 あのとき、授業では『富嶽百景』をやらなかったのですが、いま【ピカレスク――太宰治伝】を読んでみて、授業でこれを取り上げなかった先生の気持ちが分かるような気がします。 太宰は学生時代から作家になりたいと思い、同人誌をつくったり、作家に自分の作品を送りつけたりして、積極的に自分を売り込みますが、その一方で何度も自殺未遂を繰り返します。一人で自殺を図ったこともあるし、女性と心中しようとして自分だけが生き残った悲惨なケースもある。 前述のお見合いは、そういった数々の事件の後のことだったんです。 最終的には妻でない女性と玉川上水で心中し、命を絶ってしまいます。 太宰と井伏鱒二との関係も、手元の電子辞書を見ると「太宰は井伏鱒二に師事した」と書いてあるけど、本書ではこの二人の関係が「師匠と弟子」であるようには読み取れません。 井伏自身が生活の糧を得ることで手一杯で、とても太宰みたいな厄介な男の面倒をみる余裕はなかったようです。太宰の実家から「井伏先生、お願いします!」と言われ、断りきれず、仕方なく……といった感が強い。また、小説のネタに詰まった井伏は、太宰が薬物中毒に苦しんだ日々のことを本人への断りなしに書いてしまうんです。とても師匠らしくない。 まあネタ探しでは太宰も苦慮しており、かなり大胆な方法で小説の題材を入手しています。もし訴訟を起こされたら太宰が負けると思う。 とにかくムチャクチャな人生です。 「ムチャクチャだぁ!」と呆れながらも、まるで芸能人のスキャンダル記事を読むような感覚で面白く読んでしまいました。それはきっと私が太宰治という作家にも、太宰の作品にも深い思い入れがないからでしょう。太宰治ファンを自認する人には、冷静に受け入れがたい本かもしれません。 本書を映像化したら面白いだろうなと思いまして、やはり太宰を演じるのは豊川悦司さんあたりか……と月並みなキャスティングを考えていましたら、すでに映画化されてました。 河村隆一さんが太宰治を演じています。
観光旅行で気軽に宇宙へ行ける未来のお話。 あってはならない大事故が発生した。地球と月とを結ぶ往還船〈わかたけ〉が、軌道ステーション〈望天〉に衝突。ステーションの一部が吹き飛ばされ、突き刺さった往還船もろとも宇宙を漂流しはじめた。 それが本書の表紙イラストに描かれた状態。 こうして見るとチーズケーキの一片にお箸でも突き刺したかのような、あるいはアイスの棒が間違って斜めに刺さっちゃったかのような印象しか受けない。 が、大惨事である。 このチーズケーキの中に生存者がいる。軌道業務員の「二ノ瀬」をはじめ、幼い兄妹、若い女性、15歳の少年、大金持ちのチャラついたご令嬢とその友達2人、医師とその飼い犬、学者肌の若い男。 ……これで何人ですか。10人と1匹ですね。生存への道をさぐる彼らを待ち受ける危機、また危機。 人間とは、こういう切羽詰った状況に置かれると、プライドも虚栄心も義務も義理もモラルもかなぐり捨てて、本性をむき出しにするものである。 そんな10人と1匹に明るい未来はあるのか? 手に汗にぎるSF小説。 ごく私的な話をしちゃうと、どうもメカ的な描写が苦手だ。たとえば本書17ページ。「中心軸と円盤の間には軸受を挟まねばならない。無重力のおかげで極円盤自体の重さを支える必要はないが、円盤のぐらつきは発生する」 ……と、分かったような分からないような話が続くが、読みながら頭の中で明確にイメージを描くことができず、とりあえず分かったことにして先へ進んだ。 でも結局、いくら精密な機械でも人が作ったものだからね。事故の原因をたどっていけば、最終的には「人」に行き着くわけです。それは宇宙ステーションに限った話ではなく、飛行機でも電車でも同じことだ。 また生存者たちも、みんなで協力し合って冷静に行動できればいいが、なかなかそうもいかない。 前述のチャラついたご令嬢が徹底的にアッパラパーで、読んでるうちにムカついてくるんだけど!(ぱんどらさん冷静にお願いします) ……後半は空気の抜けた風船みたいにペシャンとへこんでしまって、ざまあみろ、なんて思ったりね。(性格わるいね私も) だけど、こんな大きな危機を経験したら、性格も人生観も変わって当然だろうな。 前半はやや難儀した部分もあるけど、後半はグイグイ引き込まれて読むスピードもアップ。全体としては「かなり楽しめた」と言える作品。 映像化をちょっとだけ妄想したが、これは実写よりもアニメ向きかな。
千野帽子【文藝ガーリッシュ――素敵な本に選ばれたくて。】で紹介されている尾崎翠の作品を読んでみた。 ものすごく感覚的。 ちょっと他ではお目にかかれない独特の作風だけど、それを読んで好きになるかどうかは、また別の問題だね。 私には苦手科目でした。 苦手の克服は、また別の機会に。
最近は仙台の街を歩いても、ティッシュを配られることは少なくなった。 興味のない店の割引券とか、チラシとか、もらっても即刻ゴミになるものばかり。だから受け取らない。たまにはティッシュもあるかもしれないが、手を出さない私には確認のしようがない。たぶん配る人からすれば冷たい女に見えるだろう。 でも私は、たまにしか街に出ないから、いくつかの用事をまとめて片づける段取りを考えてスタスタ(ずかずかと言うべきか)歩いているのだ。こういう人間のことは、そっとしておいてください。 だから本書に登場するようなティッシュ配りの男には絶対に出会いたくない。ティッシュを配るだけならともかく、通行人を引き止めてティッシュの拒み方・受け取り方をトレーニングするんだよ。冗談じゃない。 しかし、こんなティッシュペーパー・ボーイに出会って遅刻したおかげで不幸を回避できたとか、物の見方が変わったとかいう人が世の中にいても、おかしくはない。人間、何がどう転んで運命が変わるか分からないもんね。 じゃあ、これから私も街を歩くとき、配られたティッシュやチラシを全て受け取ってみようかしら♪ ――などと思うかというと、それはまた別の話。 本書に登場するのは、ティッシュペーパー・ボーイのおかげで何かに気づいたり、幸せになったりした人々ということになっているが、どうも私にはそう思えない。 あえてティッシュペーパー・ボーイに絡めなくても、ストーリーは成立しそうだ(なかには絡め方がやや強引に感じられる話もある)し、充分に面白く読めそうな気がする。 連続ドラマにしたら結構いいかも。放送枠は午後11時台ぐらいで。出演は戸田恵梨香と松田翔太――って、フジテレビでそんなドラマあったなあ。 「ぱんどらさん、本気で妄想キャスティング考えてないね!?」 あ、ばれた? 「この本きらいなの?」 そうじゃないよ。面白いけど、ちょっと「おとぎばなし的」というか「少女漫画チック」だなあと思ってさ。 「要するに、ぱんどらさんの年齢的な問題じゃない?」 ははははは。そうとも言うね。
巻末の対談に吉川晃司さんが登場するということで、吉川ファンの私が一も二もなくアマゾンに発注した本。 イチハラヒロコさんのデータは、私のもう一つのブログ【ぱんどらの箱】に記載したので、ご参照いただきたい。 【ぱんどらの箱】――イチハラヒロコ第二作品集吉川晃司ファンクラブのホームページで、『イチハラヒロコ第二作品集』と紹介されたのを見たとき、学校の名前じゃないんだから、もう少し何とかならないか…… などと思ったのは大きな誤解で、本当のタイトルは 雨の夜に カサもささずに トレンチコートの えりを立てて バラの花を抱えて 青春の影を 歌いながら 「悪かった。 やっぱり俺…。」 って言って むかえに来てほしい。
という、とてつもなく長いものだ。それゆえに、やむを得ず「第二作品集」と短く表示したものと思われる。 この長〜いタイトルから、そこはかとなく漂う吉川晃司的な男のイメージ。トレンチコートといい、バラの花といい。でも吉川さんのような男性が、しおらしく雨に打たれながら女にゴメンナサイするなんて、私には想像つかないけど…… 妄想としてはとっても素敵だ。むかえに来てほしい。私も。 さて本書の巻末にあるイチハラさんと吉川さんとの対談の進行役は、写真家のハービー・山口さん。 ハービーさんは1987年に吉川晃司の写真集『Date』を出した。はい。私もリアルタイムで買いました。 (イチハラさんは本書で「'86年、彼の初めての写真集『Date』が発売されました」と語っておられるが、写真集の奥付は昭和62年3月31日発行となっている。昭和62年=1987年) これが 写真集『Date』。いまや絶版。復刻を望む。  当時の吉川晃司は「スーパーアイドルという観念」が服を着て歩いていたようなものだ。しかし本人は脱アイドルを目指して悪戦苦闘しており、そこにこそ私の心を熱くするものがあった。 アイドル雑誌の表紙の撮影では、カメラマンから笑顔を求められるのが常だが、吉川晃司は「おかしくもないのに笑えない」との名言(カメラマンにとっては迷言)を残した。 その発言を裏づけるかのように、当時さまざまな雑誌に掲載された吉川晃司の写真は、どれも笑顔ではなかった。写真週刊誌のカメラに私生活を狙われる状態にも倦んでいただろう。 しかしハービーさんはカメラ嫌いの吉川晃司の心に触れ、商業的なアイドル写真とは違う表情をモノクロ写真で捉えた。 これを私が仙台の書店で見つけて、「10冊ぐらい買い占めたい……」と思いながらもお金の都合でやむなく1冊だけ買ったころ、イチハラさんも吉川ファンの一人として、おそらく喜び勇んで買っておられたのである。 ――あれから20年。(いま2007年だから、かっきり20年だね) イチハラさんはハービーさんの仲立ちで吉川晃司さんとの対談を実現させた。 同じ吉川ファンなのに……。 「ぱんどらさん、ジェラシー、ですか?」 ええ、そのとおりです。人生とは不公平である。しかしイチハラさんを恨むのは筋違いだ。 イチハラさんはアーティストとしての成功を目指して努力してこられた。その流れがイチハラさんを今回の対談に導いている。 ただのファンが握手会かなにかで吉川さんと対面して「キャー!」という状態ではなく、あくまでも アーティストと歌手との対談なのである。 ぱんどらさんも悔しかったら「対談」できる立場になってみろ、という話なのである。 ――というようなことを考えて、私はジェラシーの炎を小さく抑えている。 雨の夜にカサもささずにトレンチコートのえりを立ててバラの花を / イチハラ ヒロコ
これは一言で言えば、 ワーホリ+任侠である。タイトルそのままやん、と思われるだろうけど、とにかく 想定外の迫力で、結末が近づくにつれてページをめくる速度がどんどん上がる。 でも最初はタイトルだけを見て、もっと軽い小説かと思っていた。はっきり言えば、「な〜にがワーホリだよ」とナメていた。ナメきっていた。 私は「ワーホリ」という略語が嫌いだ。正しくは ワーキングホリデーである。 以下は、「ワーホリすごく楽しかった〜♪」とおっしゃるかたは読まないでください。 私はワーホリ否定派ですが、皆様の楽しい思い出を否定したくはありませんので…… というわけで。 ワーキングホリデービザで海外へ行き、「アルバイト+観光+語学の鍛錬」という3つの美味しさでエンジョイすることを、世間では「ワーホリ」と略して呼ぶ。 ただしワーホリ制度を利用するには年齢制限がある。おそらく中学生では無理だし、30歳を過ぎたら完全にアウトである。渡航先によって若干の違いがあるらしい。(興味がある人はご自分で調べてみよう) その渡航先も制限されている。日本政府とワーホリ協定を結んでいる国だけ。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド。 私は英会話スクールに通っていたとき、ワーホリ志望の男性・女性に何人も会った。みんな真面目だし、いい人だし、一緒に酒を飲むと楽しかった。 しかし、この人たちがオーストラリアを「オース」、ニュージーランドを「ニュージー」と略すことに激しい違和感をおぼえた。 「なぜ英会話を習ってるの?」 「あのね、あたし会社を辞めて、ワーホリでオースに行きたいの」 ワーキングホリデーという言葉は長いから、まあ「ワーホリ」は許そう。私もさっきからワーホリ、ワーホリ書いてるし。 しかし「オーストラリア」とか「ニュージーランド」ぐらいは、ちゃんと言おうよ。略語を使う人には、「あたしはその業界のことをよく知ってるの。事情通なのよ〜〜〜」という意識があるようで、どうも私は苦手だ。 もちろん私は「オースなんて言うな!」などと言わずに黙っていた。「ワーホリなんて会社を辞めてまで行く価値があるか?」とも思ったが、それも黙っていた。だってその女性は行くつもりで着々と準備してるんだもの。私の出る幕はない。 しかし、しかし……だ。 いくら海外でアルバイトと言っても、オーストラリアの土産物屋で日本人観光客を相手にしていては、英語の鍛錬にならない。(英語がそれほど堪能でない状態で行くのだから、あまり複雑な仕事はできるはずがない) 現地の語学学校に行くとしても、たかだか滞在期間は1年やそこらだ。(ワーホリビザは特殊なので、あまり長くは滞在できないらしい) まぁ、ただの観光旅行で行くよりは、アルバイトしながら学校へ行くのだから、少しは実になる部分もあるだろう。 しかし、例えば日本とは比較にならないほどカリキュラムが厳しいアメリカあたりの大学へ「留学」して、大量の宿題と英語の濁流に耐えながら勉強するのと、「ワーホリでオースに行く♪」のとは、天と地ほどの違いがあるのだ。 ワーホリで海外に行ったぐらいで、通訳や翻訳の仕事ができるわけじゃないし。(興味がある人はご自分で調べてみよう) とにかくワーホリには良い印象がない私。「ワーホリに向けて頑張りまーす♪」みたいな純朴なOLの物語だったら、とっとと図書館に返しちゃうからね! ……などと思いながら読み始めたが、主人公の「ヒナコ」は、そんなヤワなタマじゃないのだ。 大手商社に勤めるヒナコは、男性社員のセクハラ大馬鹿野郎をうまくかわし、金曜の夜には「クラブ活動」にいそしむ。ワーホリの資金を貯めるため、ちょっと危険なアルバイトを始める。 やがて日本にいられないヤバい事情ができ、ヒナコは半ば押し出されるようにしてニュージーランドへ向かうのだ。 まあムチャクチャである。 正直、ヒナコにはあまり同情できない。夜のクラブ活動にしても、ヤバいアルバイトにしても、肌の露出の多い服を「カワイイ」と言って好んで着る趣味にしても、「そこまでして無駄に色香をまきちらさなくてもいいのに……」と思う。 これからワーホリで海外へ行く皆さんは、ヒナコの真似をしてはいけない。 でも、ヒナコのようなたくましさや行動力や機転は、あっても無駄にならない。 「オース」の彼女はこの本を読んだだろうか?
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