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ジュアン・ベニートは、製薬会社会長のビセンテ・オルガスに誘われて、ミハスという村を訪れた。オルガス会長と食事をともにしながら打ち明けられたのは、ジュアンの母親に関わる秘密であった。 ミハス、ストックホルム、サンフランシスコ、ジャカルタ、カイロと、外国の都市を舞台にしたミステリー短編集。 評価=なし 途中リタイアです。 ミハスは「スペインで一番スペインらしい」と形容される村だそうです。しかし文中には特にミハスらしい美しい景色の描写は見られません。 そもそも物語の舞台を外国とする必要があるのかどうかが疑問です。ミステリー小説としてのコクも足りません。 
人が羨む北軽井沢の別荘で夏の終わりを過ごす「父」と「僕」。 標高1500mの山は涼しくて、都会の猛暑を忘れさせる。そのうえ室内に虫やネズミが出るし、布団はしめっているし、くみとり式のトイレと五右衛門風呂をそなえ、しかも携帯電話の電波が届かない。 こんな別荘でスローライフをしてみませんか。(私は虫が嫌いなのでダメです……)
映画化が決まっている小説です。 鮎川誠さんと堺雅人さんが親子を演じるとのこと。脳内で映像化しながら読んでみると、堺さんは「僕」のイメージに合います。 「父」の鮎川さんはどうかというと……私、鮎川さんの演技を拝見したことがないので、脳内映像化がうまくいかない。 代わりに浮かんできたのが原田芳雄さんの「父」です。  「僕」は無職で、小説を書こうとしています。妻との関係がギクシャクしていて、きっぱり離婚するか、もう一度やり直すか、決めかねています。それを父に相談するでもなく、かといって小説を何枚も書き進めるわけでもない。 父はフリーのカメラマンですが、あまり本腰を入れて働いてはいない。離婚歴があり、今の奥さんともうまくいっていないようで、それを「僕」は気にかけていますが、自分自身の問題もあるので、父と正面から向き合って話し合うことができない。 問題を保留にした二人は、古びた別荘でジャージを着て、薪を割り、ごはんをつくり、犬の散歩をして過ごします。 それだけの話なんですが、親子の会話がところどころ妙に面白い。 人生相談の回答者だったら「よく話し合ってください」とか言うだろうし、それは確かに正論ですけど。そう簡単に話し合えるもんじゃないですよね。親子ならば特に。 話し合ってどうにかなる問題でもないようだし。 でも季節が夏から秋へ移り変わるように、人の心も時間とともに変わってゆく。状況が変化する。 息を詰めて変化を待っているのは辛いけど、ちょっと不便なこの別荘こそが、二人にとって待ち時間を過ごす絶好の場所なのかもしれません。 小難しいところのない、涼しげな本です。残暑の季節におすすめ。
地味な小説なのに、ものすごく心を揺さぶられた。 最初は登場人物たちが嫌いだった。 まず中年の男が登場する。真面目に働いているし、人並みの常識が備わってもいるが、周囲の人々とは一切かかわろうとしない。 よく行く店で、店員と顔なじみになりたくない。勤め先で新入社員と親しくするのが嫌だ。隣人がちょっと変わっているから顔を合わせたくない。あのコンビニの店員は余計なことを話しかけないから有難い。そんなことばっかり考えている。 なぜそんなに意固地なのか。心を閉ざさなければならない理由があるのか。 それから、20代そこそこの若い女の子が登場する。勤め先が嫌で嫌で仕方ない。彼女には彼女なりの理由があって、その勤め先にとどまっているのだが……。 そんなに無理しなくてもいいのに、と言いたくなる。 でも読んでいるうちに分かってくる。意固地な男。無理する女。「私は二人とは違う。もっとマトモな人間だ」なんて、とても言えなくなってくる。二人は私の姿そのものだ。 そんな二人の心もちを変えるような事件が起こる。その場所こそが通天閣。 ちなみに、通天閣とは―― 「大阪市浪速区の歓楽街「新世界」の中心にある高塔。1912年(明治45)エッフェル塔を模して竣工。高さ75m。56年に高さ103mの塔を再建」 と、広辞苑にはある。 地味だし、暗いけど、胸の深いところから揺さぶられるような小説。
雨洩りの修繕、網戸の張りかえ、不用品の回収、換気扇の掃除や庭木の剪定など、暮らしのなかのありとあらゆる雑事をひきうける「ウヅマキ商會」。ここで3人の男たちが働いている。 社長の「橘河」、社員の「仲村」、そしてアルバイトの「市村」。 市村についての橘河社長のコメント。 ――あいつは莫迦なのに躰がよすぎるんだよ。 ここから察せられるように、全217ページの隅から隅まで えろあやしい空気が漂っている。 男ばかりの便利屋の物語と言えば、三浦しをんの 【まほろ駅前多田便利軒】を思い出すが、これにボーイズラブ的な空気を感じる読者もいるだろう。 しかし【あめふらし】と比べれば格段に明るい小説で、笑いもあり、そのくせホロリとさせるところもあり、ドラマ化したら最高だと私は思っているが、そういった話は現時点では全く聞こえてこない。 【あめふらし】にはビッカビカに輝く明るい太陽など似合わない。しとしと降りつづく雨のイメージ。 「商會」とか、「むづかしいことぢゃないんだ」とか、あえて古めかしい文字づかいにこだわっており、それがまた、えろあやしい空気をかもし出すのに一役買っている。 (私見だけど、「じゃ」と書くところを「ぢゃ」としているのは、ちょっとやりすぎの感もなきにしもあらず) 物語の舞台は現代なんだよね。アルバイトの市村くんが携帯電話を持ってたり、地下鉄の駅の自動改札を通ったりするから。でも携帯電話がたびたび使えなくなる。なぜか回線電話だけは使えて、市村くんは「ウヅマキ商會」に助けを求めることになる。 市村くんの身にどんな危険が迫るのか、それは本で読んでもらいたいけど、一言コメントするならば、 女って怖いわね……というところ。 にぎやかなエンタテインメント小説を読み飽きた方にお勧めしたい一冊。 ちなみに本書の表紙イラストは著者の長野さん自ら手がけたものだそうだ。うーん芸達者。
このまえブログに書いた 鳥越碧【漱石の妻】は、著者が漱石や妻のことを綿密に取材して書いた小説である。 いっぽう【漱石の孫】は、本物の夏目漱石の孫が「漱石コンプレックス」との戦いをつづったエッセイ。 私は『BSマンガ夜話』という番組を見て、初めて夏目房之介という名のマンガ評論家を知った。 この人が夏目漱石の孫であることを知ったのは、もっと後のことである。 「夏目房之介」はペンネームだと思っていた。 それに夏目漱石ってあまりにもビッグな存在で、「お札になった人」とか、「教科書に載ってる人」ぐらいの認識しかない。漱石が妻をもったり子供をもったりする生身の人間であったことを忘れかけていた。 「夏目房之介」は本名である。 漱石には鏡子という妻と7人の子供がいた。長男の純一は音楽家になり、結婚して房之介が生まれた。 漱石は1916年に亡くなり、房之介は1950年に生まれたから、孫とはいえ漱石との直接の交流はまったくない。 しかし世間は「あの文豪の孫!」という目で房之介を見る。 それも無理はないと思うけど、ご本人にとっては、学校の先生から変にひいきされたり、漱石が千円札になったら孫には特に大きな感慨もないのにマスコミの取材を受けたりと、鬱陶しいことが多かったらしい。 ならばマンガ家デビューするときに、「夏目」のつかないペンネームを使えばいいんじゃないか……と私は思うけど、そこで夏目房之介氏は逆に「ぜってぇペンネーム使わねーぞ。意地でも本名で押し通すぞ!」と思ってしまったのだな。 偉大な野球選手の息子なんてのも生きづらそうな気がするが、夏目漱石の孫も何かと大変なのだ。 こういう本を「面白かった」と軽く言っちゃうのも恐縮だけど、読者にとって興味ぶかい記述が多々あるのは事実。 幸いなことに房之介氏の「漱石コンプレックス」は沈静化の方向にあるようで、私も読んでいてホッとした。
双子のタレントって可愛いよね。 三倉茉奈・佳奈とか、斉藤慶太・祥太とか。マナカナは1986年生まれで大学生。慶太・祥太は1985年生まれで、こちらも大学生だって。 もちろん双子といっても一人ずつ別の人格だし、マナカナの見分けかたもちゃんとある。「左目の下にホクロがあるのが、カナ」だそうだ。(興味がある人はインターネットで検索して調べてね) タレント同士、似たようなキャラクターだと、「キャラかぶってる」なんて言い方をするが、ホクロのあるなし程度の違いしかない双子では、「キャラかぶってる」どころか「キャラほとんど同じ」だ。 これから年齢を重ね、本格的な役者として生きるとすれば、果たして「双子」という看板はセールスポイントとなり得るだろうか。「カワイイ」「リアクション同じだね」と言われるだけでいいのか。 慶太・祥太はイケメンの部類だし、いつまでもTBS『王様のブランチ』でアパートの家賃当てクイズばっかりしてないで(あのコーナーは個人的には好きだが)、ドラマとか映画に出たらどうだろう。 ――そんなこと、タレントのマネージャーでもない私が心配する義務はないのだが。 さて小説【小春日和】の主人公は、「小春」「日和」という名前の双子の少女たちである。とくに深い理由もなくタップダンスを習ってみたら、天賦の才を発揮しはじめた。 その双子に、ある広告代理店が目をつける。 双子はテレビのCMに出演した。可愛い。人気が出る。広告代理店は双子を使って、第2弾、第3弾のCMを考えている。 やがて芸能プロダクションが双子に触手を伸ばしてくる。 で、小春と日和がすぐ芸能界に進出するかというと、そうではない。両親からOKサインが出ないのだ。 両親は迷いに迷っている。父親と母親の考え方も違う。ケンカになっちゃう。 子供の才能は生かしてやりたい。しかし子役時代の杉田かおるみたいな、鼻もちならない生意気な子供になられても困る。 小春と日和も、二人で小さな額を寄せ合って話し合う。考える。悩む。 しかし悩む双子にとってありがたいのは、住んでいる場所が逗子海岸の近くだということ。少し歩けば、そこに海がある。海岸で焼きトウモロコシを食べて遊んでいれば、必要以上に考えが煮詰まらなくて済む。 また、祖母が大らかでいい。なにせ老いらくの恋に生きる人だ。祖母の彼氏である「長沼さん」の存在を、家族みんなが知っていて、ほどほどに距離を置きながら見守っている。 ギスギスした空気は少しもない。 小春と日和は、まるで長沼さんが自分のおじいちゃんであるかのように接している。長沼さんの家でご飯を食べることもあれば、自分たちの悩み――このままタップダンスを続けるかどうか――を相談することもある。 長沼さんは若いころに大病の経験があり、先々のことを心配しすぎても仕方ない、と達観している。 双子が自分の子供じゃないから、そんな悠長なことが言えるのよ――という意見もあるだろう。それは祖母も長沼さんも自覚しており、双子の両親に余計な口出しはしない。 こういう大らかな空気、広々とした景色、風通しのよさが、この小説の魅力だと思う。 風通しがいいのはともかく、小春と日和は、結局どうするのか。 たとえば、プロゴルファー横峯さくらのお父さんに「小春と日和を芸能界に入れるべきでしょうか」なんて相談したら、「いいじゃないか! 芸能界入りしちゃえよ」などと、一言で話が済みそうな気がする。 横峯さん親子は素晴らしい成功例だもんね。 しかし、あの親子も目に見える結果を出せないうちは、まわりの人に陰口をたたかれていたかもしれない。「あのオヤジ、ちょっとやりすぎだろ」とか。「娘をプロゴルファーにしてまでお金が欲しいか」とか。 そんなことを意に介さず、ひとつのことを徹底的にやりぬいたから、いまの横峯さん親子があるわけだ。 ただ、先日ニュースになった放火事件のような痛ましい例もある。息子を医者にさせたいと願う父親が、自宅に「集中治療室」と称する部屋をつくって、息子に勉強を教えていたという。 それが辛いからといって放火に走る息子の発想は大問題だ。そのせいで母親やきょうだいが亡くなったのである。命を大切にしない人間が、そもそも医者になれるはずがない。 父親にしてみれば、息子の先行きを案じての「集中治療室」なのだろうが、心の余裕が少しもない状態は、親にも子にも良いことがない。 ひとつの才能に秀でた子供は、親の手助けがあるかどうかに関係なく(手助けがあれば素晴らしいが)、その道の大家になれるのではないだろうか。 たとえ親が反対しても、子供が「この道で生きていく!」と強く思っていれば、独力で突き進むはずだ。 そこまでせずに終わっちゃう、あるいは親が手を貸しても才能が花ひらかない、ということであれば、その子供の才能もそこまで、ということだろう。 マナカナや慶太・祥太といった双子タレントにも、それぞれの道があるはずで、私が案じる必要もない。当たり前だけど。 人は当たり前のことを忘れる。そして「言葉」で物事を考えようとする。 悩みがあるときは海に行こう。あるいは窓を開けて風に吹かれよう。散歩してみよう。そうやって考えを突き詰めないことも、選択肢のひとつかもしれない。
え? 貫井徳郎って直木賞はまだ取ってないの? どうしてそんなこときくのかって? そりゃあ、ききたくもなりますよ。この本、面白いもの。 直木賞作家・東野圭吾の【白夜行】を思わせる雰囲気なの。事件のキモの部分をすぐに語らず、外側から徐々に攻めていって、最後にドンと爆弾投下するって感じ? でも【白夜行】より、貫井徳郎の【愚行録】のほうが爆弾の威力が大きいと思うのよね。 これが直木賞の選考委員に受けがいい作品かどうかは知らないけどさ。 ――ふーん。貫井さん自身は「最悪に不快な読後感を残す話を構想しました」なんて言ってる。でもさぁ、私は不快より悲しみを感じたな。 登場人物は、慶応とか早稲田とかの有名な大学を出た人たちで、頭がいいけど、タイトル通り愚かだし、残酷なの。 私なんかは地方の私立大学だけど、この人たちみたいな男女のゴタゴタは多少なりともあったの。私たちのサークル内で結婚したカップルは多かったけど、離婚したのも多かった。学外で相手を見つけた人は離婚せずに平和に暮らしてるみたい。 え、私? 私は大学のときは一つ上の先輩とつきあっていたけど、卒業まぎわに別れたね。 そしたら、その先輩がね、今度は私の後輩と付き合い始めたの。ちっとも知らなかったんだけど、卒業して何年か経ってから、2人が結婚することになって、おせっかいなやつが「ぱんどらさんにも結婚披露パーティーの招待状を出そうぜ。だって大学時代の仲間だろ」って言ってくれたらしくて。 先輩と後輩の名前が二つ並んだ招待状を受け取ったとき、なんか目まいがしそうだった。 だったら私も行かなきゃよかったんだけどさ、ノコノコ出かけて行ったのよ。 女の子が挨拶にまわってきたときは、「おめでとう」と言ったけど、男が近づいてきたときは、「どーぞ、オシアワセに!」とか可愛げのカケラもない暴言を吐いたの。 その男を好きだとか略奪したいとか、そんな気持ちはないのよ。ただね、卒業してからの私は仕事を辞めたりして身辺がゴタゴタしてて、「学生時代は何を考えて就職活動してたのか」という後悔の念もあったし。 あのときの私に彼氏はいたのかな、たぶんいなかったんだと思う。 2人が結婚することは別に構わないんだけど、「なんで向こうは結婚して、あたしはゴタゴタ状態なの」みたいな気持ちがあったんだろうね。そんなこと言われたって向こうは困るけど。 昔、はやったドラマで『金曜日の妻たちへ』というやつ、知ってる? 登場人物が不倫ばっかりしてるドラマ。 篠ひろ子? いしだあゆみ? 小川知子? どの女優さんだか忘れたけど、正妻が愛人をバラの花束で殴りつけるシーンがあったのね。華やかで怖かった。 私、パーティー会場から駅へ向かう道をひとりで歩きながら、そんなドラマのワンシーンを思い出してさ、「バラの花束、買っていけばよかったかなぁ」なんて。 でも、バラって高いでしょ。もったいなくて、結局そんなことはできなかったね。 それから数年して、今度は「あの2人、離婚したんだって」という話が聞こえてきて、「えーっ! なにそれ!」なんて取り乱したりして。 あたしよりそっちの子を選んだんだから、ちゃんと添い遂げろよ、みたいな自分勝手な妄想があったんだろうね。 ほんとに勝手だよね、私。だって2人の結婚も離婚も、私とは関係ないところにあるわけで、私と彼女と比較してどうのこうのって話でもないし。2人で離婚しようって決めたんだから、他人は口出しできないし。 ただ、本人の意志とは全く別のところで、私みたいに、鬱屈した思いを鍋に入れてグツグツ煮込んでる人っているのよ。 私の場合は殺しも殴りつけることも全然しなかったけど。 でもさ、大学生でも会社員でも、20代の若者に「恋愛するな」「合コンするな」と言うほうが無理でしょ。 小説では、慶応の学生たちの《内部》《外部》という意識もキーワードになっていて、《内部生》というのは慶応の幼稚舎から上がってきた人たちね。 《外部生》は、ほかの学校から入学試験を受けて慶大に合格した人たち。 内部生は良家の子女で、結束が固くて、外部生は仲間に入れてもらえないの。 そういう人たちは完璧に「住み分け」しているうちは平和だけど、へたに内部生に憧れて仲間に入れてもらおうとしたり、内部生が外部生の美女に恋しちゃったりすると、いろいろ厄介なことが起こるわけ。 現実の慶大生が本当にこういう意識を持ってるかどうかは知らないな。だって慶大卒の知り合いなんていないもの。 でも自分の「生まれ」って選べないでしょ。 慶応の幼稚舎から入るのが当然の、良家の子女に生まれるか。 田舎の金持ちの家に生まれて、がんばって勉強して慶大に受かって、カルチャーショックを受けるか。 グータラな両親のもとに生まれて辛い人生を送るか。 人間が自分では「止められないもの」「選べないもの」によって、事件が起こることもあるんだなぁって思ったけど、それって防ぎようがないのよね。だから悲しかったな。 ねぇ、このブログ記事、貫井さんの文章を真似て書いてみたんだけど、どう思う? でも真似たかどうかなんて、この本を読んだ人じゃないとわからないよね。もしかしたら読んだ人でもわからなかったりして。 すみません。私の「愚行」でした。
こういう胸の痛む作品が、現実に映画化・ドラマ化されるかどうかはわからないけれど、まぁ私が勝手に妄想するだけだから。 スポンサーがついてくれるか、とか、視聴率がとれるか、興行成績がどうか、なんて考えなくていいもんね。 悲しくて痛くて愚かな女、「田中光子」には、国生さゆりを妄想キャスティング。  ほかの役は妄想しないのかって? すべての役を説明しながらキャスティングしたらネタバレになるもん。だから、これだけ。 あとは本を読んだ人が各自、妄想いたしましょう。
小学生のころ、予防注射を受ける日の朝は、自宅で体温を計ってから登校した。 「体温計」「注射」とくると、なんとなく病人になったような気がして、帰宅してから弟や妹と遊ぶのも静かなものであった。なんと単純な小学生の私。 しかし予防接種は、ウイルスを身体の中に入れて免疫をつけることが狙いだ。ものすごく素人的な大ざっぱな言い方をすれば、ちょっぴり病気に近づくことである。 人間の身体は、「病気の状態」と「健康な状態」との2色にはっきり塗り分けられるものではない。 大病と闘っておられるかたがいれば、ちょこちょこメンテナンスしながら低空飛行してますというかたもいる。病気を予防するために、あえて病気に近づく場合もある。 完全な健康体でもないけれど、はっきり病気とも言えないような微妙な症状が出る人もいる。 人の身体は千差万別である。 健康体の人が、体調のわるい人に向かって「鍛え方が足りない」「甘えてるのよ」などと言い放つような思いやりのないことだけは慎まなければならない。 とくに女性の身体は微妙だ。心身が不調のとき、男性に「生理かぁ?」と冗談めかして言われることほど腹立たしいものはない。本当に思いやりがあるなら、生理なのかなと心に思うだけにとどめ、行動で思いやりを示していただきたい。 主人公の「ヒデちゃん」は30代の独身女性でイラストレーター。PMS(月経前症候群)に悩まされている。つまり、生理が近づくと頭痛がしたり、やたらと眠かったり、イライラしたりする。 (この人は生理が始まってからの痛みもひどいようだけど、それは簡単にPMSと片づけないで病院いったほうがいいぜ! 他の病気があったりしたらどーすんだよ!) 私もPMS的な症状が出るタチなので、この本を興味をもって読んでみたが、「この薬を飲めば治る」とか「こういう治療法が確立している」という話ではない。 うまくPMSと同居しましょう。そのためには家族やパートナーに理解を求めましょう――といったところだ。 ただねぇ……PMSなんて名称がつくと、かえって説明が面倒くさくなりませんかね? 「私、PMSなの」と切り出せば、「PMSって何の略だ?」とか「病気ならお医者さんに診てもらわないと」とか「お母さんが若いころは、そんなものはなかったけどねぇ」とか言われそうだ。 「私、生理が近くなると体調がよくないの」と話すほうが通じやすいのではないだろうか。 現実の生活でも、小説というジャンルにおいても、とくにPMSをクローズアップする必要があるとは、私には思えない。 ただ、冒頭で主人公がゆで卵をたたきつける場面は面白かったし、その心情に共感もした。 妄想読書人の私としては、この小説をもとに大石静あたりが脚本を書き、友近が一人芝居を演じたら面白いかも……なんてことを考えている。
解説を読んで驚いた。夏石鈴子さんというかたは、映画監督の荒戸源次郎さんの奥様だそうだ。 荒戸監督といえば、【赤目四十八瀧心中未遂】でメガホンをおとりになったかたですな。 主演の寺島しのぶさんの背中がすごい。 夏石さんは作家で、奥さんで、お子さんがいて、会社員なのだ。1人4役である。 しかも夫君は荒戸監督。 すごすぎる。グータラな私にはつとまりそうにない。 この【いらっしゃいませ】という作品は、夏石さんが新入社員だったころの経験をもとに書かれている。 ヒロインの「鈴木みのり」が丸っきり夏石さんということでもないらしいが、「みのり」は新入社員だったころの私より 数百倍はしっかりしている。 大失敗なんて全然しない。先輩に可愛がられるが、変に媚びることもない。 会社に来たお客さんに「食事でもどう?」と誘われても、自分の判断で「私は行きません」と言える。 みのりはミッション系の短大で地味な寮生活をすごしたのだが、だからといって就職してから変に舞い上がったりしない。うーん、立派。 変な先輩社員をやっつけるにも、社内に余計な波風を立てることがない。頭がいいんだ、この人。 そして、ついには 「わたしは、世直しOLになる」なんて宣言しちゃうのだ。 「水戸黄門」みたいな勧善懲悪の面白さがあるけど、私なんかは、とても立派とは言えない新入社員時代をすごし、いまだに独身でアタフタと生きていて、ちょっとコンプレックスがうずく感じもある。 でも、みのりが大失敗するシーンが仮にあったとしたら、それはそれで、ダメダメ新入社員だった自分の姿が思い出されて、やっぱりコンプレックスがうずくのだろうな。 コンプレックスなんて本当に面倒くさい。 私は世直しOLにはなれそうにないし、女として複数の役をこなして生きることも無理そうだけれど、人には向き不向きがある。 せめて1つの役でいいから、自分に自信を持てるようになって、気がついたらコンプレックスなんて忘れてた――というレベルには達したいと思っている。
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