出奔、妻子ある男性との恋愛、精力的な作家活動、そして出家と、激しい人生を自らのエッセイでたどる本。
先日、
『文藝春秋』で石原慎太郎都知事と瀬戸内寂聴先生の対談を読みました。
石原都知事から「なんで出家したの?」と何気ない調子で質問があっても、寂聴先生からは明快な返答がない。私はたまたま買い置いていた【晴美と寂聴のすべて】を読めば出家をめぐる事情が何かわかるだろうと思っていたんです。
が……
「出家の動機など、これこれですと誰が示せるだろう。私の生きて来た五十年の歳月のすべてに、出家の動機の仏縁は御仏の手でひそかに結びつけられていたのであろう」と先生は書いておられまして、凡夫のわたくしは頭(こうべ)を垂れるばかりでございました……。
そりゃそうだよね。出家だもの。仏の道に入るんだもの。これは個人の心の問題であって、マスコミが記事にしやすいような、とっても分かりやすい動機など存在するはずがない。
で、出家した後に名前が「晴美」から「寂聴」に変わるわけですが、人柄は出家の前も後も変わらないみたいですね。とにかく直情的というか、思い立ったら行動せずにはいられないかた。
変わったのはその「情」が向かう方向だけなのでしょう。出家前は男性に向かい、出家後は世のため人のために尽くす方向へ突き進んでいらっしゃる。
エネルギーの爆発力は凄まじいものがおありです。
それだけにエッセイの内容は面白いです。「読み応えがある」という意味でも「笑える」という意味でも面白い。
2007年の今は85歳となられ、目の手術をお受けになったとも聞きますが、いつまでもお元気でいていただきたいと心から思います。

評伝ものが好きです。
ただし世阿弥(ぜあみ)は室町時代の能役者。著作は残っているものの、2007年の今では調べても分からない部分が多いわけです。
たとえば最相葉月【星新一 一〇〇一話をつくった人】は、関係者に取材し膨大なデータを駆使して、著者自身の感情を排除して書かれたノンフィクション。
かたや本書はデータを踏まえたうえに著者の想像を広げて書かれ、ノンフィクションというより小説の香りが強い。
まずは世阿弥の基本データ。
観阿弥(かんあみ)を父にもち、幼いころから芸を仕込まれて育ちました。ときの将軍・足利義満がパトロンになり、若く美しい世阿弥は都のスターになります。
しかし72歳のとき、六代将軍の足利義教によって、何の罪もないのに島流しにされてしまいます。
物語は漆黒の闇で始まり、著者の生みの苦しみと作品に対する執念、そして世阿弥の芸に対する執念が絡まり合うかのようです。
つづく一章では、序章の闇をざっくり切りひらくかのように、広々とした海の景色がぱーっと広がります。
とても映像的なオープニング。
世阿弥は佐渡へ向かう船に揺られながら、これまでの人生をゆっくりと振り返ります。
若いころは絶世の美少年で、義満将軍に一目で気に入られます。
……足利義満って両刀遣いなんですね、ええ。
このとき世阿弥はわずか12歳。現代ならば義満公は間違いなく逮捕されるでしょうが、なにせ室町時代です。将軍こそがルールブック。誰にも止めようがない。
また、一座をひきいる観阿弥が芸で都を制覇するためには、将軍のお墨付きがどうしても必要で、それを勝ち取るための武器が、息子の世阿弥の美しさだったわけです。
将軍と世阿弥が寄り添うシーンは妖しく芳しい色香が漂い、毒気にあてられて目まいがするようです。
足利尊氏という偉大な祖父を持ち、地位も財力も生まれながらにして備わった義満。きれいな男や女を常に身の回りにはべらせ、その日その日の気分で選んだ一人を寝室に「お持ち帰り」しちゃう。
かたや芸事ひとつで生きる観阿弥・世阿弥親子。将軍をはじめとする高貴な人々に気に入られるためには、芸だけ磨けばいいってものじゃない。漢詩や和歌など基本的な教養を身につけ、蹴鞠(けまり)をおぼえ、酒の席での礼儀作法や気配りを忘れない。
そうやって懸命に心を尽くしても、将軍が代替わりすると状況は一変。世阿弥に代わる新しいスターが将軍の寵愛を受けます。いっぽう家庭内では跡継ぎを誰にするかという問題も浮上します。
その挙句、まるで石ころがポーンと蹴り飛ばされるように都を追われる。
華々しい過去を持つ世阿弥だけに、島での生活が始まった当初は苦悩しますが、やがて苦悩を超越して悟りの境地に入っていきます。このへんの描き方は仏門に入られた寂聴先生らしい感じがします。
本書の一章から四章のうち、三章までは世阿弥の視点で書かれますが、四章は島で世阿弥の世話をした女性の視点です。
世阿弥が島でどんな晩年を送ったのかは、データ的にはよくわかっていないんですね。だからこそ寂聴先生はご興味をもたれ、その心中を探ってみたいとお思いになられたのでしょう。
この「四章」のために、一章・二章・三章があると言ってもいい。
それはそれは美しいです。せつないです。
もうねぇ……ラストはただただ泣きました。
横尾忠則さんによる装幀と題字もすごくいい。書店で表紙だけでも眺めてみてください。
いきなり個人的な意見で恐縮ですが。
女流作家と呼べるかたは瀬戸内寂聴先生あたりが最後ではないだろうか。
いまも「女性の作家」は何人もいるが、「女流作家」とは違う気がする。
寂聴先生が得度なさる以前、まだ豊かな黒髪があり、「晴美」と名乗っておられた時代は、たくさんの「女流作家」が活躍していた。
なにがどう「女性の作家」と違うのか。
女流作家は自分の作品以上に
自分の人生がドラマチックなのである。
もちろん寂聴先生の人生も劇的で、宮沢りえがドラマで演じたほどだ。
いまの作家の皆さんは……まあ世の中全体が「個人情報を必要以上に出さない」という風潮だから、私も詳しくは知らないが、ドラマチックな人生を送っている人を、あまり見かけない。
それに作家の平均年齢が下がっていて、「普通に大学まで進学し、ある日いきなり小説を書いてみました」みたいな人が多いみたい。結婚・離婚・激しい恋愛などを経験する前に、作家になっちゃってるのね。
でも普通に生きるのが悪いこととは思わない。かつての女流作家たちは自分の激しい人生を小説のネタとしてきたけど、そればっかりが小説を書く方法ではないだろう。
本書は寂聴先生がお若い頃に交流があったという、ロシア文学者の湯浅芳子先生について書いてある。
まず表紙をひらくと、お二人の写真がある。寂聴先生の顔はテレビで見たことがあるから知っているけど、花のように可愛らしい若い頃のお顔には、失礼ながら驚いた。
そして湯浅先生のほうは、女性だけれども男性的な装いである。
このかたは同性愛者だそうだ。
ビアンの作家といえば
中山可穂が思い浮かぶが、それよりもずっと以前に、こういう文学者がいたのだ。
今でこそ同性愛と聞いて「まあ、そういう人もいるだろう」ぐらいに受け流すことはできるが、私が生まれるよりも遥か昔の話だ。世間の風あたりの強さ、なんて月並みな言葉が思い浮かぶ。
しかし同性愛を公言してはばからない。そして一人の女流作家と激しい恋に落ちるが、幸せな日々は長く続かない。やがて恋が破綻し、その後はずっと傷心を抱えたまま生きることになる。
恋でも、友達づきあいでも、食べるものでも、文学に対する考え方においても、ご自分が「これ」と思ったものに心を傾け、それ以外はバッサリ切って捨てる。
同性愛かノーマルかに関わらず、本書に登場する女流作家はみな、そんな感じだ。
だから孤独だ。
ドラマチックな人生は、確かにカッコいいと言えばカッコいいのだけど、ドラマチックな人生を生きている当人には、胸から血が吹き出るほどに辛いことが沢山あるはず。
かといって可哀想と言うのも違う気がするし。
いろいろ考えているとコメントのしようがないけれど、そんなふうにしか生きてこれなかった「女流作家」の典型みたいな人がここにいる。