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戦前の日本で、三井・三菱をしのぐ巨大総合商社として名をはせた「鈴木商店」の栄枯盛衰と、女主人として店を統率した「鈴木よね」の生涯を描く大河小説。 評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) 実直で頑固な男が神戸にひらいた、砂糖や樟脳(しょうのう)を扱う店。和服姿の丁稚(でっち)や番頭が立ち働く古めかしい風情と、総合商社という近代的な言葉が、なかなか結びつきにくいのですが、これが世界中に名を知られた「鈴木商店」の始まりでした。 よねは店主の鈴木岩治郎のもとへ嫁入りし、岩治郎の死後も、金子直吉と柳田富士松という二人の番頭に支えられながら鈴木商店のトップに君臨します。 金子と柳田は家庭環境に恵まれず、まともに学校にも行けずに、丁稚奉公で鈴木商店に入り、店主の厳しい叱責を浴びつつ仕事をおぼえ、寸暇を惜しんで勉強し、優秀な番頭に育ちました。 とくに金子の力は大きくて、まさに鈴木商店を動かすエンジンそのもの。彼によって驚異的な発展をとげた鈴木商店は、ものを「売る」だけにとどまらず、「作る」ほうへとシフトしていきました。鈴木商店の系列会社はあらゆる分野にわたり、今も世間に名を知られる大手メーカーが数多くあります。(ご興味のあるかたは Wikipediaで「鈴木商店」の項をご覧ください。私も見て驚きました) それほど金子が傑出した人物なら、たとえばパナソニック(松下電器)の創業者の松下幸之助のように本でも書きのこし、後世のビジネスマンに神と仰がれる存在となってもおかしくないはずです。 あったら売れただろうなあ。金子直吉の本。タイトルだけ妄想してみますと、『会社を育て、自分を育てる経営術』とか、『伝説の大番頭・金子直吉が語る「男子の本懐」』とか、どうですか。興味わきませんか? わきません。あ、そうですか。 とはいえ当の金子は本など書きたがらなかったでしょう。彼の「本懐」は、あくまでも鈴木よねを主人として立て、目先の利益にとらわれず世のため人のために働きたい、というところにありました。 そう。「目先の利益にとらわれず」です。 金子は鈴木商店におけるエンジンのような存在ですが、エンジンを動かすために必要な燃料――つまり「お金」については、まったくのドンブリ勘定なんですね。一つの部門で儲かると、その分を新事業にドーンと投入してしまう。当たれば多大な利益が上がり、はずれれば目も当てられない大赤字。 彼のビジネス感覚は「安定」という言葉とは無縁です。 鈴木商店という船が黒字と赤字の波に交互に揺さぶられる間、女主人の鈴木よねは、金子をはじめとする従業員たちを慈愛のまなざしで見守りつづけます。 金子に任せきりで何もしないのか、それでは主人とは名ばかりのお人形だろう――とも思われかねませんね。 でも大波に揺られる船の上で、ジタバタせず涼しい顔で座っているのは、よほど肝の大きい人でなければ出来ないことです。むしろ店を統率する立場なら、従業員を動揺させないように「涼しい顔で座っている」ことが一番の仕事かもしれません。 よねも人間ですから、ときには不安が心に浮かびますが、金子を経営の中核からはずそうとしない。金子に対する信頼感の深さがうかがえます。よねに対する金子の忠義心も絶対的で、よくも悪くも鈴木商店は義理人情にあふれていました。 しかし鈴木商店の経営手法は時代の変化とともに古色をおびてゆきます。そして世のため人のためを第一に考えたはずの金子のダイナミックな新事業が人々の誤解を呼んで、大きな悲劇が起こり、神戸の街は紅蓮の炎に包まれます。 幸せとか不幸せとか、そういう小さな物差しでは計れないような、鈴木よねの劇的な生涯です。 ドラマ化、いけそうな気がしますね。オール神戸ロケの2夜連続スペシャルドラマでどうですか。 鈴木よね役には誰がいいかなあ……。鈴木京香あたりでどうでしょう。  それにしても人の力って伸縮自在なんですね。最初は店主に叱られてばかりの丁稚にすぎなかった金子が、ものすごい努力のすえに世界の舞台へ飛び出して、めざましい活躍をする。 おそらく若いころの金子には「こういう仕事をしたい」という自分自身の希望はなかったはずです。とにかく生活のために働かなければならない。そのために金子が「やれること」は「丁稚奉公に出ること」しかありませんでした。 その仕事を好きか嫌いか、自分に向いているかどうか、などと考える暇もなく、たくさんの経験と勉強を積み重ねた結果が、この活躍です。 いまは金子が生きた時代からは考えられないほど職業の選択肢が広がりましたが、「やりたいことが見つからない」と言って何もしない若者も多いようです。 私も学生時代は「やりたいことを見つける」というアプローチで就職活動をしました。たまたま就職できたのはよかったけど、入社そうそう辞めてしまい、「やりたいことだけど、私にはやれないことだった」と思い知りまして、あんまり人のことは言えないんですけどね……。 「やりたいこと」っていっぱいあると思いませんか。実現の可能性はともかく、自分の希望だけで考えれば、私は女優になりたいし、オペラ歌手にもなりたいし、東京ドームを観客で埋めつくすロックシンガーにもなってみたいと思います(笑)。 そんなバカなこと言ってると、なかなか目標が定まりませんよね。 人生って無為にすごすには長すぎますが、なにかを成すには短いものです。「やれることは何か」というアプローチで狙いを絞っていかないと、せっかく「これ」というものを見つけても、時間切れになってしまうかもしれません。 
脚本や小説など幅広い分野で活躍する著者が、食べ物の記憶から少女時代をたどるエッセイ集。 巻末に「私の『記憶』のレシピ帖」つき。 評価=☆☆☆☆ (5つ星が最高点です) ずいぶんと嫌いな食べ物が多い人です。 嫌いな理由も「そりゃ無理もない」と合点がいくものから、「ちょっと神経質かな」と思わずにはいられないものまで、さまざまです。どちらかというと神経質なほうに寄っているかもしれない。 食べ物に関するエッセイを書くほどだから、なにをどれほど出されても、おいしい、おいしいと平らげるギャル曽根みたいなタイプを想像しましたけど。 まず油分の少ないビスケットがダメ、糠漬けもダメ、ペタペタした炒り卵もダメ、味噌汁もダメ、つぶ餡もダメ、かつおぶしの匂いもダメ。 そんな食の細い子供を「わがまま言わないで食べなさい!」と叱りつける人がいなかったことは、むしろ幸運かもしれません。 数少ない「特別に好きなもの」を口にしたいがために、料理の腕が自然と磨かれ、こういうエッセイも手がけるようになったのですからね。 エッセイというか、ほとんど小説と言ってもいいようなキメの細かい読み心地。本書をもとに脚本を書いてドラマを作れそうな気がします。 
んーこれは浪漫です浪漫。ロマンじゃなくて漢字で「浪漫」ね。 こういうの好きです。全般的に冷たいというか、ぱりっと糊づけされてヒンヤリしたシーツに包まれて心地よいというか、そんな感じです。 が、終盤で微熱を帯びてきます。 少し読みづらさを感じる文体ですが、「きちんと読めば必要なことは書いてありますから」と言われてる気がします。そう。たしかに、ちゃんと読めばちゃんと分かる。気ばかり急(せ)いて先を読み進もうとするのは私の悪癖です。 主人公の暁子(さとるこ)は30代なかばのグラフィックデザイナー。祖母の遺品の中から見つかった寒川玄児という詩人の日記を、玄児の遺族に渡すため、ある店を訪れます。 玄児の孫だという耿介(こうすけ)は弦楽器をつくる職人。日記のお礼として暁子に竪琴を渡します。 一件落着。もう二度と会うことはないだろうと暁子は思いますが、偶然か必然か、このあとも二人は顔を合わせることになります。 そこへ暁子の元カレが現れて耿介との関係を誤解し、ちょっと厄介な展開を見せていきます。 この元カレの肩を持つつもりはないけど、酒に酔って夜中に昔の恋人へメールや電話をしちゃう感覚って分かりますねえ。昔の恋人じゃなくても、邪険にせずに話を聞いてくれそうな異性の友達、とかさ。 分かりますって言えちゃう自分が恥ずかしくもあるけど……。はい。私も酔ってこのような行動に走ったことがあります。 「もしもし……あたし。うん。別に用事ってほどでもないけど、元気かなと思ってさ」みたいな。 ああみっともない! あたしって誰だよ。 翌朝、自分の電話の通信記録を見て後悔し、もう二度と同じことを繰り返すまいと思うわけです。 そう思うなら相手の電話番号やメールアドレスをメモリーから削除しろって話だよね。でもそのままになっちゃってるんだな、なんとなく。 かといって「じゃあ元カレのことまだ好きなんだね」と言われると、それも違う。 この微妙な心もちは他人には理解されにくいだろうな。理解してもらおうとも、あまり思ってないし、ただ電話やメールをするだけならともかく、ストーカー的な方向に走るのは論外。そこは人間として一線を引いておきたい。 暁子も元カレの誤解には手を焼くけど、携帯のメモリーは別れる前のまま。しかも、いざ自分が話したい相手に電話するときは、酒が少し入ってる状態でないとダメなのね。 30代後半からの恋愛はなかなか微妙だよ。 そんなわけで暁子の気持ちに寄り添って最後の1ページまで読むと、私にとってはすごく感情移入できて幸せな読書なんですが、ただ冷静に考えてみると、タイトルにまでなっている「赤い竪琴」が小道具として生かしきれているとは言えない気もします。 このタイトルで赤い表紙だったら、いっぱい血とか出るのかな……と思って少しビビっていたんですけれど。 こういう裏切られ方もまた楽しからずや、です。 妄想キャスティング。 主人公の「暁子」に、深津絵里。  口紅は濃い赤でお願いします。
「ガーリッシュ」な世界を堪能するための文芸作品を紹介してくれる超個性派のブックガイド。 一般的には「文芸」と表記するところに、あえて旧字を使い、 文藝としたところに著者の並々ならぬこだわりを感じる。 「文藝ガーリッシュ」とは著者が提唱する新しい本のジャンル。このジャンルの本たちに「選ばれる」ためには、いくつかの条件がある。 以下、本書の前書きから引用。 つい古本屋や喫茶店をハシゴしてしまう。たぶん、肺病で夭折した文學少女の霊に取憑かれてしまったんだと思う。
女子どうしだから解り合える、なんて嘘。女だからって、あんな女といっしょにしないでくれる?
《ダ・ヴィンチ》に載る十冊の話題の新刊より、《彷書月間》で紹介された一冊の古本。
日本の書店で小説の棚が作者の性別で分けられてる意味がわからない。
「等身大」「本音」「自分探し」のたぐいの言葉が苦手。
「ミステリ」とか「ファンタジー」「SF」といった既存の特定ジャンルが好きなのではなく、一冊一冊の小説が好き。……などなど、さらに諸条件はさらに続くのだが、長いので省略。ご興味のあるかたは本書を読んでみよう。 さて、私などはジャンルによる本の分類ができない性分で、ひとさまに「どんな本が好きなの?」と質問されることが最も苦手だ。 たぶん先方は「ミステリ」や「SF」などの単純明快な答えを期待していると思う。 最も嫌がられる答えは、例えばこんな感じ―― 「えーとね、ジャンルはよくわかんないけど、なんかこう……読んでて細胞がザワザワするような……単純に泣かせたりとかじゃなく……でも気づいたら涙うるっと来て、でも泣く手前で止まる、みたいな」 長ったらしくてワケがわかんない、しかも会話のふくらませようがない。こういう答えは誰も望まない。私もダテに年をくってるわけじゃないので、こんなときは本音を吐露するのではなく、「うん、いろいろ読むよ」と受け流すに留める。 だから上記の引用部分の 「『ミステリ』とか『ファンタジー』『SF』といった既存の特定ジャンルが好きなのではなく」 というところは私に当てはまるのかもしれない。 が、 「一冊一冊の小説が好き」と言いながら、わざわざ新しいジャンルをつくっちゃうところは、どうも私には納得しかねる。 それに肺病で夭折した文學少女の霊なんかに取憑かれたくはない。基本的に「霊」関係の話は怖くてダメだ。ホラー映画も見られない臆病者。 しかし、しかし……だ。 ガーリッシュなこだわりに満ちた前書きに耐えた後に本文を読むと、そこで紹介されている本は、私の細胞をざわつかせるに足る作品ばかりだったのである。 「文藝ガーリッシュ」の定義づけは著者の千野帽子さん(「ちの・ぼうし」さん。男性だそうです)に任せるとして、私は面白い本を読めればそれでいい。 というわけで、さっそく買ってみたのは、本書の最初に登場する尾崎翠(おざき・みどり)の作品を集めた【尾崎翠集成】の上・下巻でありました。
親の生きざまは子の人生を左右する。たとえば朝から酒をくらうようなグータラな親が子に与える悪影響は計り知れないが、あまりに立派すぎる親がデンと構えているのも、子にとっては少し辛い。 しかも本書の場合は、父親の立派な面と、そうでない面の落差が大きすぎる。 「楠次郎」は若いころから野心とバイタリティーに満ちあふれ、働き者で勉強熱心。やがて不動産業で躍進を遂げ、政界にも進出した。 しかし一方では複数の女性と関係を持ち、子供を生ませた。その中の一人が「恭二」で、実母が誰だか知らされないまま次郎の本妻に育てられた。 恭二は父に反抗し、父とは無関係の人生を歩もうとするが、そう簡単にはいかない。父の存在が大きすぎて、超えることも、距離を置くことも、無視することも難しい。また、父の「立派でない面」を嫌だ嫌だと思いながらも、しっかりと受け継いでいる自分に気づいて愕然とする。 大きすぎる父の存在や、自分の中の葛藤と、恭二はどうやって折り合いをつけていったのか。 その結果が著者の現在の姿である。小説家であり詩人である辻井喬の本名は堤清二。セゾングループの実質的オーナーで、西武鉄道グループの元オーナー堤義明の異母兄。 本書に「楠次郎」の名で登場する「父」のモデルは、西武グループの創業者の堤康次郎。 「楠次郎」の息子の「恭二」が父親の伝記を書くという形で物語は進む。 このお父さんは決して悪人ではない。生真面目で働き者で、たしかに関係した女性の数は多いが、ご本人は「女遊び」のつもりではないらしい。結果的には息子を苦しめたが、動機に不純さは感じられない。 不純な動機でなければ何をしてもいいという話にはならないが、お父さんの純粋さ・真面目さがあってこそ、会社の隆盛が息子の代まで続いたとも言える。そのことは息子も充分に理解している。だが理解したからといって父親に対する感情が一変するわけではない。息子の中には相反する感情が渦を巻く。 著者ご本人が抱えてきた苦悩を思うと、軽々しく「面白い」なんて言ってはいけない気がするが(もう書いてるけど)、でもやっぱり面白い。小説が息づいてる。
檀ふみというと、阿川佐和子と2人でコマーシャルに出てる女性タレントというか、本業が何だかよくわからない人、ぐらいに思ってる人が多いのではないだろうか。 檀ふみは女優である。『山内一豊の妻』だって演じたことがある――と本書に書いてある。 そして檀ふみの父親は、作家の檀一雄である。 ……とか言ってる私も、檀ふみが演じた『山内一豊の妻』は見たことがないし、それがドラマなのか舞台なのか映画なのかも知りません。檀一雄の作品で読んだことがあるのは【火宅の人】だけです、はい。 とにかく近年の檀ふみは女優というよりエッセイストとして活躍している。そのエッセイを初めて読んだけど、やっぱり巧いわ、この人。なにせ父親が作家だからなぁ。並の人とは読書量が違うし、読むものの質も違うだろう。 檀一雄の死後に遺された蔵書は、1万冊を超えるという。 檀ふみは生まれたときから本に囲まれて育った人である。 私の家にはどれくらい本があるだろう? 私が自室に積んでいる未読本が約30冊。読み終えて保存してある本が約100冊。 父が持っている日本史関係の本と、母が好きな宮部みゆきなどのミステリー小説を合わせて、100冊に満たない程度。 なんだよ。1000冊にも達しないよ。 檀一雄の足元にも及ばない、お粗末な我が家の蔵書である。いや、蔵書と呼ぶほど立派なもんでもない。 それでも子供のころは父親の本棚をのぞくのが好きだった。「日本の歴史」といった大層なタイトルの本が並ぶほか、大河ドラマの原作小説みたいなのが何冊かあったような気がする。 私は、わりと難しい漢字の読み方を誰にも教わらないのに知っているクソ生意気な子供だったが、さすがに大人むけの小説では、読めない漢字のほうが圧倒的に多かった。ところどころマジックで文字を塗りつぶされているようなもので、読んでも何が書いてあるのか、よくわからない。 でも、どういうわけかエロな場面だけは雰囲気で察知した。たとえば北条政子と源頼朝がコトに及んでいるらしき場面とか、そういうところばっかり選んで読むのである。 とんでもないマセガキであった。 うちの父の本棚に、もっと別の本があれば、私の人生も違ったものになったのではないか。檀ふみみたいに女優とエッセイストの兼業は無理としても、専業のエッセイストとか芥川賞作家とかになれたのではないか。 ――と思ってみたりもするが、父が聞いたら「おれのせいじゃない!」と言われるだろう。 たぶん私みたいなマセガキは、どんな本でも、エロ場面ばかり探し当てて読んだに違いない。 同じ「本好き」の子供でも、内に秘めた可能性は多種多様であるらしい。
年下の知人女性・A子ちゃんと本の話をしたとき、「あたしエログロっぽい本けっこう好きなんです。谷崎潤一郎とか」と聞き、美しく愛らしい外見とはギャップを感じて、驚いた。 私の場合、「どんな本を読むの?」と問われれば、「なんでも読むよ。最近のものも読むし、三島とかも読むし。谷崎なんかけっこう好きだね」と答えるが、とくに驚かれない。きつい目鼻立ちで、どちらかというと可愛げがなく、微妙に男性的な要素が混じった人間性のためだと思われる。 仙台駅前あたりの大きな書店で、書棚の前にしゃがみこんだり立ち上がったりして本を見ているジーンズ姿の(あまり若くない)女がいたら、それはたぶん私です。いかにも「本よみます・雑食系です」という空気が出ているはずだ。とくに、人からいただいた図書カードを持っているときは、「1円も無駄にすまい!」と鼻息あらく書店内を闊歩する。 こうやって書いてみると、ほとんど変人っぽいが、人に何と思われようと、好きな本を好きなように読めることは本当に幸せだ。 美女には美女なりの苦労がある。たかだか谷崎を読んだだけで「ギャップ」と思われ、人に驚かれる。(私も失礼ながら驚いてしまった。ごめんねA子ちゃん) とくに男性は腰がひけるかもしれない。 しかしA子ちゃんは少し前に結婚し、いまは育児の日々を送っているはずだ。 夫となった男性は、A子ちゃんの読書傾向をいつの時点で知ったのだろうか。交際が始まったばかりで、わざわざA子ちゃんのほうから「谷崎の本が好きなの」と打ち明けるものだろうか。 あるいは結婚が決まって引越しするときに、男性がA子ちゃんの書棚を見て、「おまえ、こういう本、読むの?」と気づいたか。 それとも男性に読書の趣味がなく、本のことなど気にも留めなかったか。 つらつら考えてみると、ディープな読書傾向のある女性は、まったく本を読まない男性を相手に選ぶと、気が楽かもしれない。(本当かどうかは独身の私にきかないでください) さて、【春琴抄】のヒロイン・春琴(しゅんきん)の苦労は、美人であるがゆえに男たちが寄ってくることである。 また、一見おとなしい美人だが実は性格が激しい、というのも苦労の種だ。 金持ちの家に生まれたお嬢様で、子供のころから盲目だという事情もあって、両親に「掌中の珠の如く」育てられた結果が、この性格である。 誠実で相性のよい男ばかりが寄ってくるなら、女の人生はバラ色だが、あまりにも美人だと有象無象の男たちの注目を集める。また、ひどく我がままで、やや嗜虐趣味のある春琴にとって「相性のよい男」が、そんなに大勢いるとも思えない。 遊び人ふうの男が、からかい半分で春琴に近づいてきた。 春琴は男をビシッと拒む。男はプライドを傷つけられ、復讐を企てる。 ここで春琴の人生は一転する。いや、一転したというより、運命という河に流されて辿りつくべき岸に辿りついたと言うべきか。 心身ともに傷ついた春琴を影のように支えつづけ、自分の身体をも傷つけるに至った男がいた。 【春琴抄】を読んで、「これは純愛だ」「献身だ」と言う人もいるだろうし、「ここまで来ると、ちょっと変態っぽい……」と思う人もいるだろう。 どちらの解釈が正解かと考えるのは無意味だ。 A子ちゃんが自分の読書傾向をどのような形で夫に打ち明けたのか(あるいは打ち明けていないのか)も、私は知らない。 ただA子ちゃんが幸せであってくれれば、それでいい。 谷崎潤一郎【春琴抄】 新潮文庫 300円

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