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1992年から2006年までの短編小説7編を収録。 「ゆうべの神様」 「緑の鼠の糞」 「爆竹夜」 「カノジョ」 「ロック母」 「父のボール」 「イリの結婚式」 「ゆうべの神様」は1992年の芥川賞候補作。 「ロック母」は2006年の川端康成文学賞受賞作。 「だれか一人を殺してもいいと神様に言われたら、肉屋の主人を狙う」 イカスミで染めたように真っ黒い表紙をひらくと、最初の1行がこれですよ。 どの作品も憎悪に満ちています。読みながら笑いを浮かべるなんてことは一度たりともなかった。 本書を好きか嫌いかという話はとりあえず脇へ置くとして、これほどの憎悪をよくもグイグイと掘り下げて書けるものだなあと、まずその点に感心しました。ものすごく強い筆圧で描かれた絵を何枚も見せられているような気分でしたね。 本書の登場人物たちが憎悪を抱く理由は、わからなくもありません。 私もこれまで生きてきて家族関係に思うところがあったし、なにせ田舎ですから世間が狭くて近所の噂好きのオジサンオバサンにうんざりしたこともあったし。 だからって殺すとか何とかまでは、ねえ……。普通は考えないですよね。 ところが彼らは憎悪を抱きしめたまま突っ走り、その結果、「えーっ! ちょっと待ってよ!」とでも言いたいような方向へなだれ込んでいきます。 ほどほどのところで「もういいや」と憎悪を手離すことは、人間が生きていくための知恵だと思います。しかし彼らにとっては、それが妥協に見えてしまうのでしょうか。 なんだかとても息苦しさを感じる作品ばかりで、それでも最後まで読まずにはいられなくて、そこはやっぱり各種の文学賞を総なめにした角田さんの見事さだと思います。 でも好き嫌いだけで言えば、さすがに好きとは言いがたいですね。 
NHK・BS2の番組撮影のためイタリアへ飛び、アルプスの山で初めてのトレッキングに挑んだ角田光代が綴る紀行文。 上に書いた「NHK・BS2の番組」とは、『トレッキング・エッセイ紀行 岩稜と氷雪の彼方に イタリア・ドロミテ』というタイトルで、2004年1月18日に放送されたようです。 それを見ていないので、アルプスの山々の美しさは想像しようもありませんが、角田さんは 「山を歩き立ち止まり、目の前に広がる光景に目を凝らしたとき、私は幾度も言葉を失った。このすさまじい、見たことのない光景を描写する自分の言葉を私は持っていないと気づかされるのだ」と書いておられます。 プロの作家に言葉を失わせるほどの絶景。たぶんテレビなんかじゃその凄さは分からないのでしょう。 私は階段や坂道が苦手で、もう山登りなんか全然ダメな根性ナシ子ですけど、こういう経験はしてみたい。ふだん簡単に見られないものを見て、その荘厳な輝きを死ぬまで胸の中にしまっておきたい。 だから、むしろ、こういうものはテレビで簡単に見なくてよかった。 角田さんが言葉を失う様子を本で読んで、「そこに何か物凄いものがある。自分で見にいかなければ分からないものがこの世にはある」と知っておけば、いつか荘厳な輝きを自分の目で見るチャンスをつかめるだろうと思います。 驚いたのは角田さんとNHKのスタッフを山へ案内したマリオさんという男性のこと。このかたはイタリア人だけど仏教徒なんですね。 カトリックの総本山みたいなイタリア。家族も親戚もみんなカトリック教徒。そんな中でマリオさんはカトリックの教えに疑問を持ち、仏教に関心を持ちました。そして日本語も知らないのに日本へ渡り、修行僧になったというのです。 ほかにもカッコいい生き方をしているイタリア人が何人か登場しまして、角田さんが必死に山登りをする様子も面白いですけど(あまり面白がっては失礼ですが……)、その人たちの話もまた面白い。 マリオさんは本をお書きになったら売れるんじゃないかと、つい下世話なことを考えた私ですが、きっと彼はそんなことしないでしょう。 仏教という心の拠り所を得て、好きな山に登って暮らしていけることがマリオさんにとって一番の幸せではないでしょうか。 
秋山家に侵入した野々宮希和子は、「あの女」の産んだ娘の恵理菜を抱き上げて逃走した。 誘拐犯になった希和子と、新たに「薫」と名づけられた赤ちゃんとの長い旅が始まる。 本当に長い旅です。4年にわたる逃亡生活。 初めは離乳食を食べていた薫が、歩けるようになり、言葉を話し、やがて希和子が「この子の学校のことはどうしようかな」と心配を始めるぐらいの年齢に達します。 そう。学校をどうするのか。それに戸籍をどうするのか。いくら希和子が「薫ちゃん」と呼びかけても、戸籍に記載された名前は「恵理菜」であり、秋山家の長女であることは変わらない。希和子が犯罪者であることも絶対に変わりようがない。 未来に何の展望もない袋小路の逃亡生活が4年にも及んだのは、警察の捜査に少々つまずきがあったことも一因ですが、希和子が隠れたところがかなり特殊な場所で、警察とは関わりたくない人々が多く、通報されずに済んだ。それが一番の原因でしょう。 正直なところ、ずいぶんと都合のいい、リアリティの薄い展開だなぁと感じましたが……読み終えてから考えてみると、本書は現代的な犯罪をリアルに描くというより、泥沼のような人間関係から抜け出せない痛々しい人々をえぐるような筆致で描く作品だと思いました。 正常な判断力があれば、よその赤ちゃんを誘拐しても良いことなんか一つもないと分かる。しかし希和子は煮詰まった精神状態にあり、物事を冷静に考えられない。そして秋山家に近づき、犯行に及びます。 では希和子の精神状態を煮詰まらせたものは何だったのか。 本書の後半では、事件から数年を経て大人になった恵理菜(=薫)が事件の経過をたどります。 読めば、ふーんそういうことかと理屈として納得はするものの、希和子にも恵津子(恵理菜の母)にも感情移入はできませんでした。 希和子は事件の犯人でありながら被害者的に描かれ、ラストシーンなんか「美しい」と言ってもいいぐらい。精神的に追い詰められた気の毒な希和子ちゃんに同情してよ、というわけでしょうか。 ところどころ疑問点はありつつも、冒頭部での希和子が薫(=恵理菜)を抱いて走り去るまでの緊迫感に満ちた描写は見事で、ぐいっと引きずり込まれて一気に読み終えました。ジェットコースターみたいな小説。
「あした」、「いこう」という言葉に、ものすごく前向きな雰囲気が漂う。でも人間は「うんと遠くへ」行ったくらいでは何も変わらない。 そもそも「旅で自分を変える」ことが可能なのかどうか。もともと自分の中にあった何かに気づく、ということはあると思う。でも、みんながみんな「何か」に気づくような劇的な旅をするわけではない。 私の知人にヨーロッパやインドあたりを一人で旅してきた者が何人かいるが、みんな機転がきくし度胸もあるし、帰国すれば「うん、楽しかったよー」とか言ってニコニコするばかりだ。もちろん事件や事故に巻き込まれなかった幸運には感謝すべきだけど。 ヒロインの「泉」は、一人旅というものに過剰な期待をしている。自分に合わない男や人格的に問題のありそうな男に、すがりつくように恋をして、やがて失恋して、自分自身を嫌いになって、「自分を変えたい」と思って旅に出る。帰ってきて、またしても変な男にひっかかる。バッカだなー。 むしろ泉ちゃんは田舎の温泉町から出ずに、地味だけれども温かい生活をめざすほうが、幸せになれたと思うけど、自分の家がイヤでたまらない。ついキラキラした都会に目が向いてしまう。いつも「ここではないどこか」を求めて、いま目の前にある「ここ」を否定している。 いつぞやの私の姿そのものである。 恋愛では「この人と結婚することになれば、生活を一新できるなあ」なんてことを考えていて、その相手を本当に好きかどうかは二の次で。若気の至りとはいえ、ひどいもんです。こういう恋は終わって当然だ。 通信教育やお稽古事を、いろいろ始めては放り出し、始めては放り出ししてた時期もある。教材を返品できる時期はとっくに過ぎていて、月々の支払いだけが残っていたりして。 ここしばらく恋愛に関しては封印している状態で、通信教育にも無闇に手を出さず、これと思った分野に絞っているけど、そうやって続けてる勉強をどういうタイミングで切り上げて次のステップに進むかが、今後の私の課題。つぎつぎに放り出すのもマズいけど、いつまでも続けている状態っていうのは、もしかしたら、ろくに自分の足元を見もせずに、ただ単に固執しているだけ、なのかもしれない。 ひとりの人間に与えられた時間とパワーは有限である。「うんと遠くへ」行くことばかり考えていると、何も得られないまま時間とパワーが尽きてしまう。 人生において何か焦ったり、もがいたりしてるあなたに、やみくもに新年の目標を立てる前にちょっと足元をごらんなさいな、という意味でお勧めしたい一冊。
読んだら痛そうだなと思って、ずっと避けてきた本をようやく読んでみた。 実際、痛い部分もあったけど、角田光代って とにかく巧いのよ。 読み始めるとやめられない。 主人公は「小夜子」と「葵」の2人になるのかな。 小夜子は幼い娘をもつ主婦。夫や義母に嫌味を言われながらも、娘を保育園に預けて働きに出る。 葵は、小夜子が勤める会社の社長。独身。大学を卒業してすぐに旅行会社をおこし、その会社で今度は「お掃除代行サービス」を始めようとしている。 どちらも30代。どちらも、うまく人と付き合えない。 小夜子は、結婚前の勤め先でも、結婚・出産後のママ仲間との付き合いでも、すすんで人の輪の中に入っていくことができない。 葵は見た目には元気で気さくな女性だけど、心は「人を信じる」と「信じない」の両極の間で揺れている。人との距離の取り方が、ちょっと変。 小夜子が自分と同じ大学で同い年だと知ると、初対面でも「やだあ。敬語はやめてよぉ」と急になれなれしくなる。社員みんなで酒を飲んだ後、「うちにおいでよ」と小夜子を誘う。「今度、温泉いこうよ。絶対ね!」と言ってみたり。 急に思いついて電車に乗って、本当に温泉に行っちゃって、「宿はどこにしようか」なんて言い出す。小夜子も誘われれば嬉しいが、いきなり行って、いきなり泊まりでは、家族のこともあるし、困ってしまう。 小夜子が「ごめんなさい、今日は帰るわ」と言うのも当然だが、そこで葵は気を悪くする。じゃあね、と小夜子を突き放し、暇そうな友人に電話をかけはじめる。これはどう見たって逆ギレだ。 独身の私にも、小さい子供をもつ既婚女性の友人がいるが、葵みたいな誘い方はできない。 ただ、葵をダメ女と断言することもできない。葵の中には、まだ整理しきれていない過去の辛い記憶がある。 そんなものに囚われないように、あたしは頑張る、頑張る、頑張る!――と肩ひじ張ってる感じが葵にはあって、なんだか痛い。 私も過去を振り返れば(今でもそうかもしれないが)、嫌な思い出を強引に振り切り、「普通でありたい」「人並みでありたい」と切実に願って、頑張りすぎてしまう部分があった。気がつけば結婚適齢期と一般的に言われる年齢を独身のまま過ぎて、あまり普通っぽくない日々を送っている。 今は、まぁ普通でないのは仕方ないとしても、自分らしく生きていければいいなと思うようになりつつある。 そんなわけで私は、葵が過去の出来事とどう向き合っていくのかな――という部分に、個人的な関心を持って本書を読んでいた。 世間の皆さんは、「主婦と独身女性、立場の違う2人の友情物語」として本書を読んでおられることでしょう。そういう解釈でいけば、葵と小夜子が紆余曲折を経て心を通わせる結末は実にハッピー。 読んでる途中が痛いし劇的だから、結末はハッピーでないとシンドイのだが。 でも私はハッピーエンドの後が気になってしまった。 葵が心の整理をつけたとは思えない。ハイテンションで頑張りすぎるぐらい頑張って、その後またプチっと切れたりしなければいいんだけど……。 いまさら本書の続編なんてのも出ないだろうから、この続きは私自身の問題とも絡めて個人的に考えてみたい。 なお、本書は映画化されている。 出演は財前直見、夏川結衣。監督は平山秀幸。 DVDのジャケットを見ると、財前が「葵」で、夏川が「小夜子」かと思われる。
角田光代の小説は、読んだ人みんなが必ずしも好意的に受け止められるものではないと思う。本書については、私も好き嫌いで言えば「嫌い」のほうに近い。 だけど読まされてしまう。本をひらいたが最後、ぐいぐいと穴の中に引き込まれる。その穴は小さい。人間ひとりギリギリ入れるか入れないかという程度だが、とても深い。どこまでも土を掘り下げていって、熱いマグマを通り抜けて、地球の裏側に出ちゃいました――なんて、そんなことは有りえないけれども、そんな妄想をさせるようなパワーを感じた。 しかし話はメチャメチャ暗い。 定職に就かず、アルバイトと雑文書きで収入を得ている34歳の女がいる。同棲中の男がいる。 男は理想ばかり高くて、「こんなタマシイのない仕事、やってられるか」と言って無職になってしまう。女はひたすら働く。 夜、アルバイトから帰ってくる女の携帯に、男は電話をかけて買い物を頼む。おにぎり、素麺のつゆ、乾電池、発泡酒など。そのお金を払うのは女だ。「あとでまとめて払う」と男は言う。 女にしてみれば、「あとで」っていつよ、と言いたいところだ。しかし男と別れてアパートを引っ越すにはお金がかかる。国民健康保険やなんかも滞納している。女は日々の暮らしをしのぐのに精一杯で、毎日が同じことの繰り返しで、なにひとつ新しい展開がない。 カネ、カネ、カネ、カネ。この世は何でもお金だ。「愛があれば、お金はなくてもいい」なんて言ってる人はどこにもいない。いや、いるかもしれないけど、それは「ちゃんと生活の基盤を確保してさえいれば、使い切れないほど巨額のお金はなくてもいい」といった意味だろう。 この小説の場合は、生活の基盤からして危うい。アルバイトを今日は○時から○時までやっていくら、雑文を○枚書いていくら、このぶんだと今月の収入はいくらで、これとあれとそれを支払って……などと計算して、やりくりしなければ生活が成り立たない。女は危機感をおぼえる。 が、同棲相手の男は脳天気だ。「自分の理想に合う仕事が見つからない」と言って、いつまでも無職のままでいる。女に断りもせずに新聞の購読を申し込む。あいかわらず食料の買い出しはすべて女に頼む。お金が足りなくなる。 目につくのは消費者金融の無人契約機。水商売や風俗業の「従業員募集」の文字。 そうやって女は落ちるところへ落ちていくのかな――と思わせながら、底力を見せる。マイナスの状態がプラスに転じるのである。そして決意する。雑文書きだけはやめまい、「雑文」だけれども、他のアルバイトが忙しくても、書くことだけは続けていくのだ、と。 そこで小説が終われば、まぁ美しいといえば美しいのだが、女のパワーは止まらない。さらに暴走をつづけるのだ。 ぐーたらなフリーターの生活を描くだけの小説だったら他にもたくさんあるだろうし、かといって「雑文書きを続けよう」と決意するだけで終わっては何となく嘘っぽい。 美しくはないが、ガーッとなだれ込むようなエンディングが凄まじい。賛否両論はあると思うけど、私はどちらかというと「賛」。 ヒロインを演じる女優には、水野美紀を妄想キャスティングしてみた。 
たかが「妄想」とはいえ、4人姉妹のキャスティングって、けっこう大変だぁ。 【夜をゆく飛行機】についてのレビューは こちら。 映像化するならば映画より連続ドラマがいいかも。 「NHK朝の連続テレビ小説」にどうですか? あ、でもタイトルが「夜をゆく飛行機」だからダメだなぁ。NHKの「夜ドラ」って今やってます? さて私の妄想キャスティング。 専業主婦の長女「有子」(ありこ)。石田ゆり子。  作家の次女「寿子」(ことこ)。上野樹里。  大学生の三女「素子」(もとこ)。香椎由宇。  高校生の四女「里々子」(りりこ)。本書の主人公。 新垣結衣。  「谷島酒店」を営む両親。 前田吟と市毛良枝。   有子の夫や昔の彼氏、里々子が好きになる男の子など、重要なキャラクターは他にもいるのだが、ネタバレもしたくないので妄想キャスティングはここまで。 あとは本をお読みになった皆様のイマジネーションにお任せ。
私は夜空を飛んでいく飛行機を眺めるのが好きだ。 とはいえ私の家は空港からかなり距離がある。同じ宮城県内でも仙台市の南部なら、仙台空港に発着する飛行機を電車の窓からでも、はっきりと見ることができる。アメリカでビルに飛行機が突っ込むという例の大規模なテロが起こった直後に、たまたま所用で電車に乗った私は、ぐんぐん地上へ近づいてくる飛行機を見てテロのニュース映像を連想してしまい、腹の底がざわざわと落ちつかなかった。 ああいう生々しい飛行機ではなくて、ブラックブルーの夜空を進む小さな光の点としてしか認識できない飛行機を、ぼんやり眺めるのが好きだ。 たとえば冬に、家の軒下に置いてあるポリタンクから、ストーブのタンクに灯油を補充しながら。 あるいは夏に、二階の自室で缶ビールを飲みながら。 ふと夜空に目をやると、小さな光がまっすぐに進んでいくのが見える。私は霊感とか超能力とか宇宙人には全く縁のない人間だから、それがUFOかもしれないとは微塵も考えない。 ああ、飛行機だ――と疑いもなく思う。 インドア派の私はあんまり旅行もしないし、会社では出張もないから、今まで飛行機に乗ったのは3往復だけ。そのうちの1回は国内線で、帰りの便が日没後に飛んだ。窓の外には黒い布に無数のガラス玉を散らしたような景色が広がったのを覚えている。 飛行機の小さな窓に顔をひっつけて、黙りこくっている私の姿は子供も同然だ。が、隣の席は気心の知れた友である。私よりずっと旅なれていて、「あたし、どこでも眠れるから」という人なので、余計な神経をつかって世間話などするより、放っておくほうがお互いに快適でいられる。 日中のフライトなら陸地と海の境目が見えて、「いま、東京の上空かなぁ」などと考えることもできるが、それも夜はできない。切れ目なく夜景がつづくだけだ。どこの上空ともわからない。ただひたすら飛行機は飛びつづけ、やがて徐々に高度をさげていき、1時間やそこらのうちに仙台空港へ着陸したのだった。 あの魔法のような時間を思い出しながら、夜空に光る小さな点の動きを目で追うと、私の心はふわーっと空を飛ぶのだ。 しかしそれもほんの数秒のこと。私の心は長いこと住み慣れた古い家に戻る。見なれた家族の顔があり、テレビはいつものお気に入りの番組を放送している。 昔は都会のきらきらした夜が大好きで、でも家が田舎にあるから終電の時刻も気になって、それが嫌で嫌でたまらなかった。かといって無断で泊まったりすると家族がうるさいし、友人のアパートに泊めてもらうのも申し訳ないし(泊めてもらったことは何度かあるけど)、そういう外泊が似合わない年齢にもなった。 でも、夜空の飛行機に心を持っていかれる私は、たぶん今でも都会の夜景が好きだし、ここではないどこかへ自由に飛んでいきたいとも思っているのだろう。 住み慣れた家は心やすらぐが、ときには足かせにしか思えないこともある。家の中はずっと平穏無事だったわけではなく、大きな波風が起こる日もある。家族の誰とも口をききたくない、顔も見たくないと思う日だってある。家族のかたちも不変ではない。祖母はもうこの世にいないし、妹は夫の転勤のため北海道へ引っ越した。 それでも家族は家族だ。私が夜をゆく飛行機を眺めてから心を引き戻す場所は、この家しかない。 「家族」を描いた角田光代の小説といえば、私が読んだ中では 【空中庭園】もあり、かなり面白いのだが、読み進むうちに登場人物の心情が痛さ・怖さとともに伝わってくる。あまり共感はしない。 【夜をゆく飛行機】は「谷島酒店」の4人姉妹と両親をめぐる、どこにでもあるようで、どこにもないような物語。 【空中庭園】のような角田光代らしい鋭い筆致はたくさんあるが、本書は作品全体を包む空気がやわらかい。そして共感できる箇所が山ほどある。そこに付箋をつけろと言われても、とてもじゃないが付けきれない。 新聞広告を見て衝動的に買った本だが、私にとっては見事に「当たり」だった。
角田光代の小説は「角田光代の小説らしさ」にあふれている。ときどきテレビなどで見かける角田光代の顔は可愛いのに、小説の世界はけっこうエグい。読んでいて痛い。 こういう小説を書く人って素の部分はどんな感じなのか? そんな興味にかられて角田光代のエッセイ本をよく読む。 作家と呼ばれる人々の中には、「他人と同じことをしたくない」って言いそうな人が多い気がするが、角田光代は みんなと同じことをしたいらしい。 みんなと同じだと安心するらしい。 そして「自分はごく普通の人間なのだ」と思って生きてきたが、ふと「なんか違うぞ」と気づく。そこから「角田光代らしさ」にあふれた作品が生み出されているようだ。 私はこのエッセイ集を新幹線の中でニヤニヤしながら読んでいた。他人に見られたら絶対に「変な人!」と思われるに違いない。車内がすいていて本当によかった。 爆笑というほどではないが、じわじわと面白さが沁みてくるのである。 「ああ、そんな感じ、わかるよ」という部分と、「さすがに作家。鋭い指摘」と思う部分が、ほどよく混じりあっている。 前半は恋愛についてのエッセイ、後半は本と旅についてのエッセイである。 角田光代の旅はすごいぞ。旅の前には必ず極度の緊張に襲われると言いながら、モンゴル語を知らず、ガイドもつけずに、ぽーんとモンゴルの首都ウランバートルに飛んでしまう。 私もモンゴル語を知らないし、旅なれてもいない。東京に1泊するだけで奇妙に荷物がデカくなって友人に笑われる。だから「ウランバートルには行かない」という選択をするし、この先も「ウランバートルへ一人で行ってみよう」という気はほとんど起こらないと思う。 基本的に出不精の私である。 どちらかというと、本を読んで「脳内トラベル」をするほうが好きだ。 (旅行記を読むということではなくて、本の世界にどっぷり浸る、という意味だよ) 角田光代がエッセイに書いていた本で、「ふふん♪ これは私も読んだもんね」と言えるのはこちら。 ……なんだ、3冊だけか。 ぜんぜん少ない。「ふふん♪」とか言ってる場合じゃなかった。
タイトルが何となく可愛い。だってピンク色のバスだもの。表紙の絵も可愛い。小さい子が読む絵本みたいだ。 薄い本だが、中篇の『ピンク・バス』と『昨夜はたくさん夢を見た』の二つが収録されている。 『ピンク・バス』の内容はすさまじい。うっかり「かわいい〜」とか言って読んじゃうと厳しいものがあるかもしれない。妊婦のかたにはお勧めしない。虫がお嫌いなかた、繊細な心をお持ちのかたにもお勧めしない。 『昨夜はたくさん夢を見た』は、イメージバカと呼ばれる登場人物の「イタガキ」が何となく可笑しい。『ピンク・バス』ほどには鋭さがなくて、エンディングはほっとする。 もちろん、どちらも小説としての凄さはある。ご自分のコンディションを考えて、OKならばお読みいただきたい。 どうして角田光代はここまで書けちゃうのか。自分で書いてて、気分がどうにかなったりしないのか。 私なんか、昨夜、ちょろっとゴキブリが出てきただけで殺虫スプレーと箒を持って大騒ぎだった。ゴキブリとともに寝て起きる生活は想像したくない。 『ピンク・バス』のヒロインである「サエコ」は学生時代に3回も留年した。なぜなら「レゲ郎」と路上生活をして、ろくろく大学に行かない時期があったからだ。 そういえば私は大学時代にヘヴィメタくんと遭遇した。私とは別の学科だが、一緒に受ける授業があった。ヘヴィメタくんは痩せた長身で、細い黒のジーンズ姿にギターを背負い、長髪であった。 どんな格好をしようと各人の自由だし、もっと本格的にヤバそうな人も学内には見受けられたが、ヘヴィメタくんは清潔に見えないのが問題であった。 ある日、ヘヴィメタくんが「ぱんどらさん、きょうの2時限目、休講だってさ」と話しかけてきた。 「……あ、そうなんだ。知らなかった。ありがとう」と返事はしたが、会話したことのない相手に名前を知られていることが驚きだったし、急に話しかけられたことも驚きだった。 友人どもは「あんたヘヴィメタくんの『お気に入り』だね。へへへへへ」と笑うばかりであった。 私は今も昔も、男は短髪をもって良しとする女だ。(たぶんキムタクをあんまり好きになれないのはそういう理由。でも吉川晃司がものすごい長髪になったらどうしよう。嫌いになるだろうか? わからない) 「レゲ郎」のドレッドヘアなんて論外である。 ところが「サエコ」はレゲ郎にある種のパワーを感じて、ふらふらとついていってしまう。 サエコは「なにかになりたい願望」が強くて、お嬢様っぽくなろうとしたり、不良少女になろうとしたり、彼氏にセーターを編んであげる女の子になろうとしたり、英語のできる学生になろうとしたりするのだが、どれもこれも失敗に終わっている。 これではダメだ――と思っているところでレゲ郎の登場となるわけだが、サエコの焦りは奇妙だ。 なにかになりたい気持ち。たとえば、「学校の先生になりたい」「サッカー選手になりたい」「歌手になりたい」「社長になりたい」「料理人になりたい」……という話だったらわかる。将来に向かって進んでいこうとする意志がある。なりたいものを目指して、その道の学校へ行くなり、資格を取るなり、就職するなりすればいい。 しかしサエコには「この先」という考え方がない。いま、その場で、「お嬢様」や「不良少女」などの枠に自分を当てはめようとする。でも合わない。窮屈で、すぐ外に出ちゃう。建設的なものが何もない。 だからサエコは自分がとても嫌になり、その反動でレゲ郎の自由さに憧れるんだけど、なにせ路上生活ですから……。詳細は本でお読みください。私にはとても再現できない。角田光代の筆致が恐ろしい。 結局サエコは留年して、やっと大学を卒業する。結婚して子供を身ごもり、うまく「主婦」の枠に自分を当てはめることができたと思った。が、なんでも形から入る人だから、つまりは結婚生活も形、なのかな。 サエコが本当に望んでいることって何だろう。そもそもサエコに「本当の望み」というものがあるのか。 人間、何歳になっても人生のやり直しはきく――と言うけれど、自分の能力や、自分をとりまく環境を無視して「これをやりたい」「あれをやりたい」と望むだけでは、人生が何年あっても足りない。 私は歌手(アイドルでも、オペラでも)や、女優や、ピアニストにとても憧れるのだが、いまからそっちの道に進むのは絶対に無理だということは充分わかっている。 私の中には、いちおう「こういう方向に進んでみたい」というものがあるが、それだって、考えているだけで何もしないでいたら人生は終わってしまう。いつまでも「いまは勉強中の身だから」なんて思っていると、そこから一歩も進めない。 サエコと大差ないんじゃないか、と思ってしまう。(でもヘヴィメタくんやレゲ郎とはお近づきになりたくない) 角田光代の小説は、読む人間の心を映し出す鏡、なのかな。
しばらく前に友人と遠出して、ホテルに1泊したが、どうも内装が安っぽくて、「なんだかラブホテルみたいね」と言って笑った。 しかし「え、ラブホテルってどんなところだか知ってるの?」とツッコミを入れたのは、もう少し若いころの話で、すでに30代後半に突入している私たちのセリフではない。 ラブホテルというものが、いつごろからこの世に存在するのかは知らないが、まぁ20代から40代にかけての皆さんは、たいていラブホテルのイメージを把握していることでしょう。 この私が大学生のころには間違いなくラブホテルはあり、当時の彼氏とともに必要に応じて利用したものである。全体的にチープな雰囲気が漂う建物で、部屋に入ると、なぜか天井が鏡張りだったりする。 ネーミングのセンスもすごい。 たとえば、この小説の冒頭に登場するのは ホテル野猿である。まったく「地獄級」のネーミングである。京橋家の長女マナは、この地獄級のラブホテルで「仕込まれた」のだ、と母親に聞かされる。 衝撃的というか、笑撃的なオープニングだ。「仕込んだ」話なんかするか、ふつう。 たしかに、両親の性行為の結果として自分が存在していることは、理屈としてはわかる。だが、自分の両親がラブホテルでコトに及ぶ場面など、私には想像できないし、想像したくもない。 (ちなみに、私はさっきまで茶の間に一人でいて、この文章を書いていたのだが、両親が帰宅したので、2階の自室にこもって続きを書いている。いくら読書ブログの原稿とはいえ、ラブホテルという言葉が頻発しているのだぞ。両親には見せられない) ところが京橋家では、「何ごともつつみかくさず、タブーをつくらず」という方針で家庭生活が営まれている。だから高校生の長女マナにも、ホテル野猿でのことを明るく話すのだ。 小泉今日子の主演で映画にもなった【空中庭園】だが、これを読む前は「どうも暗そうな小説だな」と勝手にイメージを抱き、あえて手を出そうとは思わなかった。しかし古本屋で100円だったので、つい買ってしまったのだ。 なんだ、ものすごく明るい小説じゃん、これで100円とはお得だね――とニンマリしたのであった。 しかし、書き手は角田光代である。直木賞作家である。ただの明るいホームドラマでは終わらない。 隠し事をせず、仲よく明るく、ひとつにまとまっているように見える家族だが、じつは隠し事が山のようにあり、ひとりひとりの精神的なベクトルは全くバラバラな方向にむかっている。 「家族崩壊の物語」と言えば、そうかもしれないが、まったく隠しごとのない家族なんて、この世に存在するだろうか? たとえば、あなたは生まれて初めてキスをした日、家族の顔をまともに見ることができたか? 「ねーねー、おかあさん、わたし今日、彼氏とキスしちゃったの♪」「おれ、あのコとキスしたんだ……」と言えるか? むしろ、母親にキスの報告をする娘や息子って、ちょっと変じゃないか? 既婚男性の皆さん(あるいは女性でも)は、「浮気なんか一度だってしたことないよ」と胸を張って言い切れるか? たしかに京橋家は病んでいるかもしれない。しかし、京橋家のパパ、ママ、娘、息子、おばあちゃんが、抱えている秘密を洗いざらい明かしたら、健全な家族になれるのか? 幸せになれるのか? 私はそうは思わない。言わないほうが幸せなこともある。 むしろ、京橋家の人々が秘密をすべて明かしたら、それこそ家族は一気に崩壊するだろう。 家族は家族でいるしかない。なるようにしかならない。そういうものだ。
ひとことで言ってしまえば、 ダメダメ女のダメダメ恋愛小説。男のほうもかなりダメダメかな。 女の気持ちにちっとも気づかず(気づいてないふりか?)、女を都合よく使っちゃう。たとえば風邪を引いて動けないときに「なにか食べるもの持ってきて」とか言ったりして。 そんなダメダメ男だったら、さっさと見切りつけちゃえばいいじゃん。 この女は、いわゆる恋愛依存症だな。 と、読み始めのころは思うけど、終盤へ向かうにつれて、その思いが変わってくる。 たとえば私は、恋愛関係に行きづまりを感じたら、「あなたにとって私は何なの!? 私を好きなの、嫌いなの!?」と相手に迫って決着をつけるタイプ。 一方、この小説のヒロイン山田テルコは、「決着をつけてマモちゃんと会えなくなるのはイヤだ。マモちゃんが他の女を好きならそれでもいいから、マモちゃんのそばにいたい」と思うタイプ。 最初のうちは、マモちゃんに「うざい」と思われるようなことをしたり、ストーカーじみたことをしたり、マモちゃん以外のことはどうでもよくなったりと、本当にダメダメだけど。 テルコも反省するのね。友達に相談したりもする。そしてマモちゃんに自分の気持ちを押しつけることはやめ、友達みたいなサラサラした関係に変えていく。 でも、マモちゃんを忘れようとは、絶対にしない。 ダメダメ女の恋愛小説といえば、【嫌われ松子の一生】というのもあるけれど、これはダメダメ恋愛に原因を求めるのね。家庭環境が松子をダメダメ女に育てたんだろうなぁ、と思わせる書き方をしてる。 でも、【愛がなんだ】では原因なんてどうでもいいの。 山田テルコがひたすら突っ走る。ずっとマモちゃんを想いつづける。 それに比べて、「相手が私を好きでなければ、関係を解消してしまおう」とする私は、すごく利己的なのかもしれないなぁ、なんて思う。 テルコみたいな恋愛は、私には無理かもな……。
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