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自転車ロードレースの「チーム・オッジ」に所属する白石誓は、エースの石尾豪を支えるアシストとして、地味ながらも確実に仕事をこなす。 しかし「石尾は自分が勝つために選手を一人つぶした」という噂がある。石尾を尊敬する誓(ちか)は、ただの噂だと受け流すが、心に不安を残したままレース本番に臨む。 第10回大藪春彦賞受賞作。 評価=☆☆☆☆☆ (5つ星が満点) 自転車ロードレースが体力と知力を要する緻密なスポーツであることを、本書で初めて知りました。 個人競技ながら団体競技に近い。勝つために走る「エース」と、エースを勝たせるために走る「アシスト」という役割分担がある。エースが勝てば記録に残り、アシストは「いい仕事をした」と誉められるだけで記録はされない。 しかし役割分担は必ずしも固定的ではありません。アシストからエースに抜擢される可能性はあるし、レース展開によっては役割分担を捨てて、アシストでも自分のための走りに徹することがあります。 ヨーロッパでは「紳士のスポーツ」と呼ばれ、「ルール違反ではないが、やってはいけないこと」が暗黙のうちに決められています。それに反しない範囲で戦略を立て、「おれがこう走れば相手はこう来るだろう」と敵方の心理を読みながらレースを戦います。 コースは平地もありますが、起伏が激しいこともあり、下手な走りをすれば命を落としかねません。 レースに臨む選手たちの心情もさまざま。ある者は「今はアシストの地位に甘んじているが、いつか必ずエースになるぞ」と闘志を燃やし、またある者は「どうせオレは万年アシストさ」と劣等感を抱く。なかにはエースのために払った犠牲が大きすぎて、恨みを抱く者もいます。 主人公の白石誓は、高校時代に陸上競技の選手として名を馳せ、オリンピック出場も有望視されたのに、勝つことだけを考えて走ることに疑問を感じて陸上界を去りました。そして自転車ロードレースにおけるアシストの「人のために走る」ことに意味を見いだします。 いっぽう、チーム・オッジのエース石尾は孤高の人。飛行機の中でも、ホテルでも、すぐに眠って身体を休め、練習やレースに備えます。口数が少なく、つねに勝つことを第一に考えて行動します。 だからこそ、誓は「石尾は勝つために選手を一人つぶした」という疑惑を完全に捨てきれず、かといって本人に真相を問いただすこともできません。 うっかり手を触れれば切れて血が出る刃物のような緊張感がはりつめる中、選手たちの戦略と思惑が交錯する。そんな自転車ロードレースで、誓は自分自身を知り、真のエースとはどういう存在であるかを知ります。 少々とっつきにくい感じもありますが、ゆっくり読んで端正な文体をかみしめました。ラストは感動的でカッコいい。 妄想キャスティング。 主人公の「白石誓」に、福士誠治。  
昭和38年、連続爆弾魔「草加次郎」が世間を騒がせている最中に、地下鉄で爆発事件が起こった。 たまたま現場に居合わせたトップ屋の村野善三は、またも「草加次郎」が動いたとみて取材に走る。だが女子高生殺しの疑いをかけられ、思いどおりに動けない。その中で村野は思いがけない真実を知る。 評価=☆☆☆ (5つ星が満点) 主人公の村野善三は、『 顔に降りかかる雨』と『 天使に見捨てられた夜』に登場する探偵の村野ミロの父親です。 「トップ屋」って何だろうなーと思ったら、週刊誌のトップ記事を書くフリーランスの記者のことでした。 村野が「私、こういう者です」と差し出す名刺には、『週刊ダンロン 特約記者 村野善三』とあり、それを見た刑事は「なんだ、トップ屋か」と蔑むように言います。トップ屋は、警視庁に記者クラブを置く新聞社の記者より一段も二段も低く見られています。 しかしトップ屋集団「遠山プロ」の男たちには、「おれたちが『週刊ダンロン』を支えている。警察発表の通りにしか記事を書けない新聞より、おれたちのほうが面白い記事を書ける」という自負があります。 村野は記事を書く筆力もさることながら、調査能力に秀でています。のちに記者から探偵へ転身したのは、そういう素地があったことも理由の一つでしょう。 そのころ『週刊ダンロン』編集部は、トップ屋を排除して社員だけでやっていきたい意向を見せ始めていました。『ダンロン』に限らず業界全体に「トップ屋はもう終わりだ」という空気が漂っています。 桐野作品はどれを見ても、こういう諦めの空気が漂っているようです。 探偵ミロシリーズでも、村野ミロは愛に傷ついているし、探偵業に情熱があるようにも見えないし、事件の関係者と寝ちゃうし……。諦めというか、けっこう投げやり。そんな調子で大丈夫かなあと思います。読んでいて、こんなに安心できない探偵も珍しいんじゃないかな。 そういう不安感と、結構オドロオドロしい事件の背景もあって、先を読みたい気持ちにターボエンジンがかかったのがミロシリーズでした。 いっぽう本書は、後年の村野善三の姿を知っている分、ターボエンジンがかかるほどのザワザワした不安感はなく、諦めの空気だけが澱んでいる。 それに連続爆弾魔であるはずの「草加次郎」が、途中から爆破をしなくなっちゃうんですよね。 ところどころに「これが草加次郎の正体か?」と思わせる人物は登場しますが、物語の焦点は女子高校生殺人事件に移ります。草加次郎のほうは……あれ? ん? うーん。そういうオチか。ちょっと不完全燃焼の感は否めない。 しかし村野善三は一連の事件で大切な友人を亡くし、トップ屋からの転身を余儀なくされます。彼にとっては青春時代の苦すぎる終幕であり、人生の大きな節目でした。 昭和38年に流行したファッションや人気スターの名前が文中にたくさん織り込まれていますが、それらと村野の青春時代の思い出は分かちがたく結びついているのでしょう。亡くなった友人は当時のファッションのまま、村野の記憶の中で永遠に生きつづけるのでしょう。 
「私」は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。 一人で伊豆の旅に出てから四日目、峠の茶屋で休んでいる旅芸人一行の中に若い踊子の姿を見つけた「私」は、ひとつの期待に胸をときめかせて道を急いだ。 孤独な「私」の心をときほぐす出会いを描く『伊豆の踊子』のほか、『温泉宿』、『抒情歌』、『禽獣』を収録。三島由紀夫の解説つき。 評価=☆☆☆ (5つ星が最高点です) 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。有名な書き出しですね。すっきりして無駄がなく、それでいて情景が目に浮かぶようです。 ただ小説の中身はどうでしょうね……。評価が難しいです。 正直なところ、自分の心にひっかかるところがなくて、どこから小説の世界に入りこめばいいのやら、よくわかりませんでした。字づらだけ追った感じ。 
その裁縫師は、広大な邸宅の離れを借りて小さなアトリエを構えていた。女は60年も前に出会った裁縫師とのきらめくような記憶に、今日も胸を締めつけられる。 表題作《裁縫師》を含む官能的な5つの物語を収めた作品集。 「官能的」な物語。なにか濃密な空気にわが身を絡めとられる感じを想像しましたが、空気なんて漠然としたものじゃありませんね。もっと直球勝負でした。エロスのかたまりがドーンと来ます。 収録された5作品のうち、とくに《裁縫師》と《女神》はそんな印象で、残りの3作が変化球っぽい感じ。 《裁縫師》の主人公は会社を定年退職し、第2の職場で働く女性。黙々と仕事をしながら、ふと9歳のころの記憶を蘇らせます。 長い人生をふりかえれば様々な出来事があっただろうし、いろいろな人々との出会いがあったでしょう。しかし彼女は、名も知らぬ裁縫師との出会いを、うなじに触れた熱いものの感触を、そのあとに続く痛みと甘さを、何よりも鮮明に記憶しています。 もしかしたら歳をとって昔のことが美しく見えるだけかもしれないし、空想好きな9歳の女の子が近所のお宅を見てあれこれと想像をめぐらせただけのことかもしれない。いずれにしても、長い年月を経た後では真実を確かめようがありません。 不粋なことを言えば、興信所に頼んでその裁縫師を探すこともできるだろうけど、それは彼女の本意ではないでしょう。 胸の奥に秘めた思い出があること。その思い出が静かで単調な彼女の生活を支えていてくれること。それが彼女にとって大事なことなんだと思います。 《女神》はね、ちょっと笑っちゃいました。男性って「兄弟」という言い方をするでしょう? 同じ女性と関係があった者どうし、という意味で。 女性だと、同じ男性と関係があった者どうし、つまり元カノと今カノですかね、そんな間柄で「姉妹」なんて言いません。 だけど想像するに、元カノと「あたしたち姉妹だわね♪」とか言って笑いあったりなんて、私は絶対にしたくない。 ……そうか。嫉妬心が先立つと兄弟とか姉妹とか言ってられないんだ。 男性だって一人の女を激しく奪い合うような状況にいたら、脳天気に「おれたち兄弟♪」なんて言えませんよね。 その女が「女神」とでも呼ぶべき手の届かない存在で、たまに地上へ降りてきて、たまたま選ばれた何人かの男たちが幸運な夜をすごし、女神はまた高いところへ戻っていく。 そういう状況なら、兄弟どうしで幸運な夜の思い出を分かち合えるのかもしれません。 でも神のごとき素晴らしい男性との幸運な夜の思い出を女性どうしで分かち合うなんて、やっぱり絶対に無理だなあ……。そうお思いになりませんか? 女性の皆様。 妄想キャスティング。 謎めいた「裁縫師」に谷原章介。  
角川書店で『月刊カドカワ』の編集長をつとめた後に幻冬舎を設立し、出版界に数々の伝説をつくってきた男が、自らの「病い」を語る。 見城さんカッコいいです。 この本、過去の様々な記事やインタビューや文章から選んで編集しなおしたものだそうで、内容の重複もあるし、書き下ろしでないのが残念ですけれどもね。 やや自慢が入ってるのかなーっていう気もしないではありませんが、 自慢話のひとつもできない男がなんぼのもんじゃと私は思います。もちろん許容範囲はあって、ただ嫌味なだけで中身のない話を延々くりかえされるのは御免こうむりたい。 見城さんほどの人は自慢したっていいと思う。41歳で角川書店の取締役編集部長になり、42歳で辞めて幻冬舎を設立し、周囲から「失敗するよ」と言われながらも13冊のベストセラーをたたき出した。 先日、NHK教育テレビの番組『知るを楽しむ――人生の歩き方』でも見城さんを拝見しました。 作家や芸能人に多くの人脈をお持ちで、優秀な部下の方々に囲まれておられる。でもお仕事上の敵は多いでしょう。誤解されたり悪く言われたりもしたと思う。作家に対しても、すごく深い付き合い方をするあまり傷ついたり傷つけたりもしたでしょう。 愛犬を撫でながら遠くを見る目が深い孤独感をたたえていました。 男の孤独感は女心をひきつけます。たぶんこのかた、モテます。 でもそんじょそこらの女では埋めようのない孤独感。とくに私はヘナチョコなので全然お役に立てません。ヘタに近づくとかえってご迷惑になりそう。遠くから眺めているだけで充分でございます。 ごく個人的な話をすると、東京の老舗イタリア料理店キャンティで見城さんが「一緒に食事をした日本のきらめく才能」として多くの芸能人や作家の名を挙げておられる中に、吉川晃司の名前があったことが嬉しかった。 
自宅に図書室を持つ両親のもとに育った斉木杉子は11歳。 本と父と母の言葉に培われてきた「言葉」が、学校では通じない。杉子は読書にふけってクラスメートとの間に壁をつくる一方で、息苦しさを癒す場所を探し求める。 いまどきの小学生の女の子は本当に「かれが欲しい〜」とか言うの? なんか気持ち悪い……。主人公の斉木杉子はクラスメートのそんな発言に共感できず、「あたし、変わってるのかな」と悩みます。 私は断然、杉子ちゃん派ですね。なにが「かれ」だよ。かゆいわ。まったく。 だいたい世間の人たちが「交際相手」という意味で「彼氏」「彼女」と言いはじめた頃から私はかゆくて仕方がなかった。でも代わりの言葉が思いつかない。「恋人」もしっくりこないし……というわけで、やむを得ず、彼氏、彼女と言ってます。 メールアドレスを「メアド」とか「メルアド」とか言うのも変だと思う。ちゃんとメールアドレスと言っても何秒もかかりません。 就職活動が「シューカツ」と略されたときは、「シューマイトンカツ弁当か!」と一人でツッコミを入れました。カロリー高そう。 私はブラッド・ピットのファンで、彼が「ブラピ」と呼ばれることに我慢なりません。友人には「あたしの前でブラピは禁句! ブラッドとお呼び!」と申し渡しました。 それでも世間の多数派が「ブラピ」ですから、つい友人も「ブラピ」と言っちゃう。 まあブラピだろうがシューカツだろうが、そんなことは瑣末な問題です。なんの実害もない。気にしなけりゃいい。多数派に合わせてしまえば楽です。 そうかといって合わせられないのが、少数派の性(さが)なのですね。 「かれが欲しい」というクラスメートの言葉に共感できない主人公の気持ちは、私にはよく分かる。 でも「あたし、変わってるのかな」と問われたら答えに悩みます。「普通だよ」では嘘になるし、「うん変人だね」なんて言ったら傷つくだろうし。大人は「わたし変人だからねー」と開き直ることもできるけど、11歳の女の子には辛いな。 私にも小学生のころから少数派の萌芽がありました。5年生のとき、クラスの女の子たちが三つか四つぐらいに分裂してました。私はそれに気づかず一人で好きなようにやっていて、気づいたら派閥の外にポツンと置かれてた。 でも派閥のどこかに積極的に入ろうとはしない。心の中で「なんで分裂するの? ばかみたい」と思っています。 心に思うだけで口に出さなくても、そんな私の冷ややかさは何となく伝わります。クラスの女の子たちがコソコソと「あの子、生意気だから仲間はずれにしようよ」と耳打ちし合った瞬間から空気が一変した。 いまマスコミで報じられるような陰湿なイジメはないものの、とにかく無視される。休み時間に居場所がなくて辛い。当時、うちの小学校では5年生と6年生にクラブ活動の時間があって、それも辛かった。私はお友達と一緒にテニスクラブに入りましたが、そのお友達との関係が変になっちゃった。 ラケットは学校の備品を使います。みんなが我先にキレイなラケットを取り、私にはガットのゆるいボロいやつしか残らない。それにクラブの女の子の数が奇数だから、「2人組になって練習しなさ〜い」と号令がかかると、私が余っちゃう。 いま思えば、顧問の先生もラケットの点検ぐらいしてくれよって話です。もちろん私から先生にラケットがボロいことを申し出れば代わりを用意してくれたかもしれない。どうしてもイヤなら仮病を使ってクラブ活動を抜け出す手もあった。なんと私は要領の悪い子供でしょうか。 でも人数が奇数なのはどうしようもない。先生も「一人だけ他のクラブへ行ってね」とは言わないだろうな。なにか言うとしても「そこは3人で交代でやってね」ぐらいでしょうか。本書にも書いてありますが、学校の先生は「全体」を見るべき立場で、細部に注意が行き届かないこともあるのですよね……。 幸いにも仲間はずれの時期は長く続かず、みんなが何事もなかったように仲良くしてくれました。5年から6年に進級するときはクラス替えなしでしたが、同じ顔ぶれとは思えない楽しい学校生活でした。 私は要領が悪くてウザったくて、そのくせ皆を冷ややかに眺めている少数派の子供でしたが、考えてみれば、私を仲間はずれにしようと最初に言い出した張本人もまた少数派だったはずです。そこに他の人たちが相乗りして結果的に多数派になるのですよね。 人は状況によって多数派になったり少数派になったりするものです。どちらが良いとか悪いとかの話ではありません。 しかし、つねに多数派とは相容れないものを持ちつづけて生きる人もいるでしょう。もしかしたら主人公の斉木杉子はそういう子かもしれない。でも少数派の自分を貫くことが幸せとは限らない。杉子も強がっているけど友達の輪に入れないことは寂しいのです。 辛そうな杉子を見てお母さんは悩みます。お父さんは悩むお母さんに手を差し伸べますが、娘には特に何かをアドバイスする様子もありません。 そんな中で杉子はある行動を起こします。正しい行動かどうかは微妙だし、それでクラスの女の子たちが意地悪な態度を変えるかどうかはわかりません。かえって杉子は悩み苦しむことになるかもしれません。 でも杉子の中の何かが変化したことはわかります。ハッピーエンドとは言えないけれど、毅然として美しいラストシーンです。 
第27回横溝正史ミステリ大賞受賞作。 美貌の慶大助教授・神ヒカルは、監察医務院の非常勤監察医。 7年ぶりの大寒波が大地を凍えさせる1月25日、監察医務院に身元不明の外人女性の遺体が運びこまれた。そのとき謎の男たちが現れてサブマシンガンをぶっ放し、ヒカルに女性遺体の解剖を迫る。 冬景色に監察医務院に外人の遺体。んー。これって 高村薫【リヴィエラを撃て】のオープニングに似てるんですけど。 神ヒカル(じん・ひかる)っていう主人公の名前は漫画に出てきそうだし。 それから警視庁公安部外事一課管理官の「速水」という男は、神ヒカルが助教授に就任した折りに、白と紫のカラーの花束を贈ったということなんですけど。 (公安とか外事課も【リヴィエラを撃て】では繁茂に出てくる単語でありました) 紫のカラーか。 速水で紫のバラだったら笑っちゃうよね。真澄様〜♪ ……と、まぁ、ストーリーに今ひとつ乗り切れなかったもんですから、そんな瑣末なことばかり気になりました。 著者のお名前は「かつら・びじん」とお読みするそうです。 今後のご活躍をお祈り申し上げます。
作家の「小海鳴海」が失踪した。夫は鳴海が残していった原稿を見て驚愕する。 それは鳴海が10歳のときに誘拐監禁事件の被害者だったことを告白する手記だった。 小海鳴海はペンネームで、本名は「北村景子」なんですけどね。 事件後、景子は精神科医のカウンセリングを受けるように勧められますが、かたくなに心を閉ざします。親に対しても、警察官や検事に対しても、学校の子供たちに対しても同じ。 自分が事件について語れば、その言葉から人は、仕事にしろ、興味本位にしろ、 少女の身に何が起こったかを想像します。それが景子にとってはいたたまれない。 やがて景子は夜な夜な「毒の夢」をつむぐようになります。 それは怖ろしく緻密な想像力の産物。「直感に支えられた想像を夜毎に育て上げているうちに、遂に事件の芯を捉(とら)まえ」た景子は、その毒を言葉として一気に吐き出すことで、一編の小説を書きあげてしまいます。 景子が嫌った「想像」こそが、小説家の仕事を得るきっかけとなるわけです。 誘拐監禁事件の全容は、「作家・小海鳴海」の「作品」として書かれ、もちろんそこには作家の想像力がはたらいています。必ずしも事実すべてを丸ごと書いてはいないし、明かされない部分が多くあります。 それが読み手の想像を誘う。 「想像こそは人間の怖ろしい所為」だと言われても、想像せずにはいられません。 面白いかどうかと問われれば、はっきり「面白い!」と言える。でも怖い。 事件そのものの怖ろしさもさることながら、自分自身を含めた「人間」という生き物の怖ろしさを嫌でも実感させられる、周到な計算がしつくされた小説です。
花村商事の社長令嬢「花村英子」が美しき才媛の運転手「別宮みつ子」を従え、昭和初期の帝都をゆく。 花村家の人脈と別宮の博学をもってすれば、どんな事件も一挙に解決。 ……「どんな事件も」という部分は大げさに過ぎるかもしれませんわ。ほほほほほ。 世間を騒がすような重大事件が発生すれば、いくら別宮みつ子が有能とはいえ、警察を呼ぶだろうと思われます。 そうすると別宮が解決すべき「事件」は、英子お嬢様の周辺に起こる出来事で、警察が関与しないこと、あるいは上流階級の人々が警察の関与を避けて内々に処理したいことに限定されてまいります。 そのうえ英子お嬢様はまだ学校に通っていらっしゃる。通学の手段は別宮が運転するフォード。もちろんご学友の皆様方も大半がお車でご通学なさっていらっしゃいます。 三越デパート、図書館、資生堂パーラー、お稽古事、お友達のお宅へのご訪問……何事においても英子お嬢様のような上流階級の方々は、お一人で行動なさることがございません。 つまり、ガードの堅固なお嬢様方の周辺では、解決に頭を抱えるような厄介な問題が起こりにくいのでございます。 せいぜい、ご学友が殿方からラブレターをもらって困惑しているとか、恋に焦がれるあまり殿方と駆け落ちしたという程度のこと。 ご訪問先で不幸にして人が死ぬところをご覧になったとなると、英子お嬢様のショックはさぞ大きいかと存じますが、それとて英子お嬢様ご自身が狙われたり手をくだしたりしたわけではございません。 警察の捜査に協力はしても、お嬢様が事件に深く立ち入って2時間ドラマのごとく謎を解明してみせる必要があるとは思えないのでございます。そして「謎を解明する」と申しましても、すべては別宮みつ子のお膳立てがあってのこと。お嬢様お一人では解明など望むべくもないのでございます。 思わず お嬢様は早くお家にお帰りなさい――そう申し上げたくなるのでございます。 事件の種類が最初から限定された中で、お嬢様が事件に関わらねばならぬ「理由」を提示し、トリックを明かし、変化をつけながら物語を展開していくご苦労は察するに余りあるのでございますが、ご苦労の大きさに比して、面白味は薄いのではないかと思わざるを得ないのでございます。 わがまま勝手な読者のたわごととお聞き流しくださいませ。 花村英子に超能力があってさ、別宮みつ子を従えて、帝都に巣くう魔物を倒す、みたいな話だったら面白いかもね――って、それじゃあ【帝都物語】みたいになっちゃうよ〜。
ペンギンと暮らす売れない作家に、ある奇妙な仕事が依頼された。そのせいで作家の身辺には怪しい人影がちらつく。 ……というか、 人間がペンギンと暮らしてること自体が奇妙だと思うんですけど。 いくらロシアの冬が寒いとはいえ、ペンギンはロシア以上に寒いところで生きる動物なわけでしょ。 そして人間は寒くなれば暖房器具を使う。暖かい部屋の中でペンギンがウロウロする。作家は冷蔵庫から冷凍の魚を出し、エサとしてミーシャに与える。 奇妙なような、ほのぼのとするような光景である。 この作家に妻とか親とかはいなくて、アパートに独り暮らしで気楽だけど、やっぱり寂しいんだろうね。ペンギンさんがいることで精神のバランスを保ってる感がある。 だけど「奇妙な仕事」をきっかけとして、友達ができたり恋人っぽい女性が現れたりして、作家の暮らしは少しずつ変わっていく。当然ながらお金もできるし。 その様子は読んでいてホッとするが、守るものができると心配が増えるんだよね。怪しい連中の影が相変わらずチラチラしてて、つい「あんまりお気楽に出かけたりしないほうがいいんじゃないの!?」などと言いたくなる。 かといって出かけないわけにもいかない。まぁ私たちも同じだよね。心配の種はどこにでもあるけど、だれとも関係を持たず、どこにも出かけずに毎日を暮らすことはできない。 そんな作家の生活が淡々と続くのかと思いきや、やっぱり怪しい連中は黙っていなかった。 身近な人々の死を目の当たりにして危機を感じた作家は、それまでの人間関係を全部チャラにして一つの決断をする。それが正しいかどうかは……なんかもう判断不能。 ラストの2〜3行を読んで絶句しました。 でも理由とか動機とかをいちいち説明しない、バーンと書きっぱなしな感じがカッコいいと思う。
生まれ変わっても、あなたと一緒になりたい♪――と思っちゃうぐらいに恋が盛り上がってるかたにお勧めの一冊。 でも最初の5〜6ページを読むと結末の予想がつくのね……。 幕末に生きる人物のセリフが、ときどき平成ふうになるのも引っかかる。 私は今ひとつ乗り切れなかった作品でした。まことに恐縮です。
ひとことで言えばエロジジイ小説。でも主人公の「江口老人」が、いまだ衰えぬ性欲を持てあます様子は、ちょっと哀れでもある。 「おれはまだ現役だぜ! よその枯れたジジイとは違うぜ!」と自分に言い聞かせて売春宿へ通う江口老人。だが、やっぱり勢いのある若者とは違い、なかなか性欲が行動に直結しない。眠れる美女が横に眠っていても、ろくに触れやしない。その代わり、「おれも若いころには女といろいろあってさ……」といった回想と、若い女体の観察にふけるのである。 こんな性欲ならば、むしろ枯れちゃってるほうが本人も楽だろう。妖しい売春宿のオバチャンに高額の金をふんだくられることもないだろうし……。 同じエロジジイ系の文豪でも、谷崎あたりは「私はエロジジイですが、それが何か?」という開き直りを感じる。若いころの勢いは衰えても、よりいっそう精神的なエロ度を深め、足フェチなどの方面にグイグイ突き進む。 こちらは自覚症状の薄いエロジジイ。精神的には、お風呂場でお母さんの裸を見て「どうしてお父さんとお母さんの体は違うの」とか言うような小さな子供に近い。 純朴なようでいて目がギラギラしている。じっと女体を観察してるうちに、ジワジワとスケベ心がわき上がってきて自分でもどうしていいかわからない、みたいな印象がある。 自覚症状が薄い分、エロの根が深くて始末に負えない。 本書は『眠れる美女』と『片腕』と『散りぬるを』の三篇を収録し、さらに三島由紀夫の解説をつけた、なかなかの豪華版。 個人的には『片腕』のほうがエロエロ度がより高めだと思う。
『不思議な国のアリス』を読まずに子供時代を終えた私、それを今ごろになって思い出して読んでみた。 うーん……これは厳しいね。あまりにもシュールな物語で、けっこう毒もあり、ちょっと面白みがわからない。 シャレや掛けことばが、ものすごく多い。こういうのは原文で読んで楽しめれば一番いいけど、日本語に訳すと、どうしても「説明」風になっちゃうので、笑うところまでいかない。 登場するキャラクターは絵だけで思い浮かべると可愛いね。アリスにしても、時計を持ったウサギにしても、トランプの女王様にしても。でもセリフはカワイくないし、キャラどうしの会話がかみ合わないので、大人の私が読むとイラつく。 できることならイギリス人の子供になって原書を読んでみたい。
第4回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。 応募時のタイトルは「チーム・バチスタの崩壊」で、大賞に決まって出版する際に「栄光」と変えたらしい。 「崩壊」ではストレートすぎ。「栄光」のほうが皮肉めいた感じが出て、いいと思う――というのは結果論である。プロの鋭い仕事ぶりを見て、自分では思いつきもしないくせに、いいとか悪いとか語りたがる素人の戯言である。 戯言ついでに言ってしまえば、ミステリーと呼ぶには少し足りない感が、なくはない。 しかしディテールで読ませる。(エラそうな物言いだね、私も) ミステリー小説としての出来不出来を真剣に考えるより、エンタテインメントとして楽しんじゃうほうがいい。 本書の映画化・ドラマ化の予定はないのだろうか。 あったら絶対に面白いと思うけど、「バチスタ手術」を扱ったドラマとしては、すでにフジテレビで『医龍』がオンエアされたので、その後からドラマを作っても、「かぶってる」などと言われるだろうか。 映像化されるかどうかは別として、キャラが立っているので、これはもう「妄想キャスティング」の餌食である。 というわけで私の妄想キャスティングの発表。 田口公平東城大学医学部・神経内科学教室の講師で、大学病院の不定愁訴外来を担当。出世競争から一歩ひいてマイペースに生きる神経内科医。 バチスタ手術で連続して発生した3件の術中死について、高階教授から内部調査を依頼され、しぶしぶ引き受ける。 堺雅人。 桐生恭一東城大学医学部付属病院・臓器統御外科ユニットの助教授。アメリカ帰りの心臓外科医。 東城大学のエースと目されながらも、執刀したバチスタ手術で立て続けに患者が死亡。強い違和感をおぼえ、みずから内部調査を受けることを申し出る。 伊原剛志。 白鳥圭輔厚生労働省大臣官房秘書課付技官。厚労省きっての変わり者。 内部調査に苦心する田口医師をサポートするロジカル・モンスター。別名「火喰い鳥」。 唐沢寿明。  小説では「白鳥圭輔」は小太りの男で、唐沢寿明とは少しイメージが違うが、ハイテンションな演技でクセのある男を派手に演じてもらいたいなぁ。 それと、主役の堺雅人にはナレーションもやっていただきたい。 「○月○日、聞き取り調査1日目。○○が聞き取り調査のトップバッターに志願してきたのは意外だった……」などと、日記を読み上げる感じの淡々としたナレーションが合いそうだ。 悪ノリついでに、この大御所2人にご登場いただいて脇を固めたい。 大学病院内で対立する教授2人。 消火器腫瘍外科ユニットの 高階教授に、中尾彬。  臓器統御外科ユニットの 黒崎教授に、江守徹。  ……はー。漢字が多くて疲れた。
私はこのブログで「妄想キャスティング」を書きまくっているものだから、もしや皆さんは「ぱんどらってドラマばっかり見てるんじゃないだろうか」とお思いかもしれない。 そんなことないんですよー。ドラマって、よほど気に入ったものしか見ないんですわ、私。「月9」なんかロクに見やしないし。 ただ、「来シーズンの月9のヒロインはだれ」とか「他局では、こんな話題作が登場」とか「このドラマは脚本家のだれそれが手がける」とか「原作はなに」みたいなことだけはチェックしている。 昨日、 森絵都【風に舞いあがるビニールシート】の 妄想キャスティング案を書いたとき、高野志穂の名前を出せたのは、私が高野志穂という女優さんの追っかけをやってますから――という理由ではない。 宮藤官九郎のエッセイを読んでいて、高野さんの名前が出てきたから、「ああ、こんな女優さん、いたいた。NHKの朝の連ドラに出た人だな、たしか英語もしゃべれるよなぁ……」と思い出したのである。 宮藤さんありがとう。なにせ宮城県が生んだ天才脚本家である。 でも私がクドカンを知ったのは近年のことで、TBSドラマ『池袋ウエストゲートパーク』は主役が長瀬智也だから見なくちゃ♪ と思ったにすぎないが、あれは面白かった。 あのときは脚本家のこととか、宮藤官九郎が宮城県出身であることとか、ぜーんぜん知らなかったの。原作者の石田衣良のことさえ知らなかった。もうホント、ごめんなさい。 以来、クドカンはあれよあれよという間に人気脚本家となり、宮城県内の各種イベント・式典においてクドカンの講演会が企画されるまでになった。 フジテレビ『メントレG』に出演したときのクドカンは、城島茂に「ご出身は?」と問われて、「おれ、宮城です。ものすごく田舎なんです」と素直に答えた。 宮城県出身の芸能人のなかには、仙台出身じゃないくせに「出身は『仙台』です」と言っちゃう人もいて、私はそういう人はあまり信用したくない。 もしや西日本にお住まいの皆さんは、「宮城」よりは「仙台」と言われるほうが、地理的にイメージしやすいのだろうか? 私は高校の修学旅行で京都へ行ったときに「どちらからですか?」ときかれて「宮城です」と答えたが、相手が「えーと宮城というと……」と考え始めたので、やむなく「あのー、仙台のほうです」と補足した。それで相手は納得したが、仙台市民ではない私が「仙台です」と言うのは、なんとなく後ろめたかった。でも「宮城です」と先に言ったのだから……と自分を納得させたのであった。 しかしクドカンがテレビで「宮城の出身です」と言い、かりに視聴者が「宮城ってどこだっけ」と言っても、そんなこたぁ城島茂にもクドカンにも聞こえやしない。自分で地図みろ、って話だ。 さて宮城県が全国的にマイナーかどうか、という問題はさておき、クドカンの話である。とにかく「偉い人オーラ」を発しない人なのだ。このエッセイ集を読むとわかるけど、気取りがないというか腰が低いというか、ヘタをすると自分を過小評価しがち、ぐらいのところまで低姿勢になってしまう。 脚本を手がけた映画がヒットし、なんとかかんとか戯曲賞も受賞し、宮城県の実家にはファンが訪れ(このエッセイ集に書いてあったんだよ)、「天才」の誉れ高きクドカンであるが、手がけたドラマの視聴率は「月9」ほど高くならない。 なんなんだ、オレは……という戸惑いが、クドカンの中にあるのかもしれないな。 私は『タイガー&ドラゴン』なんか大好きだけどねー。岡田准一とか長瀬智也とかカッコいいのが出たし。(長瀬フリークのぱんどらです) しかし好みの違いは理屈ではない。「クドカンより月9がいい」という人を説得しようなんて、私は思ってない。 クドカン自身も、自分の作品を多くの人に見てもらいたいという気持ちはあるけれど、やっぱりオレのテイストは「月9」とは違うし……と自覚してはいるみたい。 自分のスタイルを貫き通すことと、多くの人に受け入れやすいものを書くこと。その2つのバランスって難しいわね。 本の読者・ドラマの視聴者としての私は、「嫌いだから」「受け入れ難いから」という理由で、その作品をダメだと決めつけることだけはしたくないと思っている。 ……真面目なブログ記事になってしまったけど、このエッセイ集は笑って読めます。 電車やバスの中とか、こっそりオフィスで読むとか、そういう場合にはお勧めしません。マジ、吹き出すよ。 ご自宅用にどうぞ♪
お恥ずかしいことに、私は著者名の読み方がわからず、図書館で50音順に並んだ書棚の前を何度も行ったり来たりして、「こ」で探すべきか、「ふ」で探すべきか……と考えていたのだった。 「こどころせいじ」さんである。たいへん失礼いたしました。 さて小説の舞台は、太平洋戦争中の沖縄。 もう終戦が近くて、日本では物資が何もかも不足しており、人々は身も心もボロボロに疲れきっている。敗戦のムードが色濃く漂っているのに、兵隊さんの手前、敗戦の「は」の字も口に出せない。 米軍の爆撃も恐ろしいが、それ以上に、日本人どうしが憎みあったり、少ない物資を奪いあったりする様子が恐ろしい。 敗戦の気配を感じながら、「最後までプライドを持って戦おう」という思いで戦場に立つ人と、「プライドよりも自分の命を守るのだ」と考え、逃亡する人がいる。 どちらが良いとか、正しいとか、そういう話ではない。 逃げると決めたら、たとえ卑怯と言われようと、一切の感情を遮断して、手段を選ばず逃げるしかない。そこで「逃げるな」と言って道をふさぐ人がいると、平時では考えられない惨劇が起こる。 とはいえ、道をふさぐ人にはそれなりの強い気持ちがあるし、逃げれば逃げたで罪悪感が残る。 重い話である。 第135回の直木賞候補作に挙がった作品だが、ちょっと文章に意味が明快にくみとれない部分がある(たんに私の読解力不足か)。 それと、主人公が受け取った手紙を、一文ずつに解体して、小説のところどころに挿入してあるのだが、これはドラマや映画でいう「ナレーション」みたいなものかと思うけど……。 手紙を一文ずつ小出しにされることで、読者には「この手紙の差出人は誰?」という謎が与えられ、先へ先へと引っ張られていく効果はあるだろう。 (ブログ『本を読んだら……by ゆうき』のゆうきさんからコメントをいただき、書き加えさせていただきました。ありがとうございます) ただ、個人的には、ある程度ストーリーが進んでから、丸ごとの手紙が書いてあるほうがいいかも……と思ってみたりもした。 そうなると小説全体を書き直さなくちゃいけないよねー。古処さんの作品ではなくなってしまう。 すみません。妄想読書人のしょうもない妄想でありました。 とはいえ、近年のカッコいい戦争ものの映画なんか見て涙してる若い衆は、こういう本を読んでみるべきだと思うよ、うん。
テレビをつけっぱなしにして、その音を聞きながら本を読むのが癖になっている。 ブラジル移民の苦しみと報復を描いた【ワイルド・ソウル】を読んでいるとき、「ドミニカ移民訴訟」のニュースが耳に飛び込んできた。 1950年代にドミニカ共和国へ移住した日本人と遺族ら170人が「『優良農地を無償配分』などとした日本政府の誇大宣伝にだまされ劣悪な環境での生活を強いられた」として、31億円余の賠償を国に求めた訴訟で、東京地裁の判決が出たという。 判決では国策の誤りが指摘されたが、20年たつと請求権が消滅するということで、請求は棄却された。 勝訴か敗訴か、どっちつかずの微妙な判決を聞いて、原告が記者会見で語った「棄民」という言葉が重かった。 いっぽうブラジル移民の中には成功した人もいたが、【ワイルド・ソウル】に登場するのは成功から遠く隔てられた人々。この本を読まなければ、私が「棄民」の意味を知ることは永遠になかったかもしれない。 2ヶ月の現地取材と1年の執筆期間をかけて書かれた小説だけに、平々凡々と生きる私のような者にも、歴史的な事実の重みは伝わってくる。 日系ブラジル人の「ケイ」と「山本」は身分を偽って日本に入国し、日系コロンビア人の「松尾」とともに政府への報復を企てる。 正直なところ、事実の重みと比べて、3人の報復の方法が、ちょっと軽いかな……という気はする。読んでいる私は「え、これでいいの? 満足できるの?」と3人に問いたい気分になりかけた。 でも考えてみれば、3人がどんな報復をしようと――たとえば政府の要人を暗殺しても――心が完全に満たされることはないのだと思う。 法律上の請求権が消滅しようと、たとえ国から賠償金が出ようと、苦しんで死んでいった移民が生き返ることはないし、歴史に残った事実を消し去ることはできない。 重い小説だけれども、ブラジル育ちのケイという男の能天気さでホッとする。結末はパーッと突き抜けた明るさがある。 ケイは能天気というか、ド助平というか……。女の下の毛を剃るなよ、おい! ケイと深い関係になる女のほうは、かなり性格わるいね。読んでいて、ほとんど魅力が感じられない。 ケイみたいな男でないと、この女の相手はつとまりそうにない。剃られた毛が生えてきてチクチクして気持ち悪くても仕方ないね。
小説だけどエッセイのような、色っぽいけど嫌らしくない、そういう本。 たった5歳の「麗子」という名の女の子が、なぜか芥川龍之介とか菊池寛といった大物文士たちと対等にしゃべっているのが可笑しい。 ただし芥川は「九鬼」、菊池寛は「蒲池」という名で登場する。 九鬼は本を読むのが速い。和書なら1日に6〜7冊、洋書なら1日に1200〜1300ページ読むという。(芥川もそのとおりだったらしい) 天才肌で、憂いを浮かべた顔に暗い色気を漂わせ、女にもてる。小説は「傑作」と評されている。 傍目には何の悩みもなさそうだ。 が、九鬼は他人にはわからない苦悩を抱えている。 「蕭々館」(しょうしょうかん)に集まる文士たちは、夜な夜な酒を酌み交わしながら議論したり、〈名文暗誦合戦〉をやったりと、まるで子供のように大騒ぎしながらも、内心は九鬼が今にも自殺するのではないかと気が気でない。 麗子は、蕭々館の主である作家・児島蕭々(小島政二郎という実在した作家をモデルにしている)の娘だ。 5歳にして、30代の九鬼に 恋をしている。現実には「初恋は5歳でした」という人は、そう珍しくないだろう。しかし麗子が九鬼に宛てた手紙は、笑っちゃうほど大人である。 その手紙を本書318ページから引用してみる。 九鬼さんには、逢う度に女の人の匂いがしました。
(中略)
九鬼さんはずっと花の匂いを追いかけて、今日までやってきたのですね。ところが、手に摘んでみると、どの花も九鬼さんが探していた花とは違っていたのでしょう。あたしみたいな子供がこんなことを言って気が引けますが、九鬼さん、花と、花の匂いとは、元々別のものなのです。九鬼さんが追いかけたり、追いかけられたりしたのは、花の匂いであって、花の幸福ではなかったのです。
こんな手紙が5歳の女の子に書けるわけがない。 私の姪っ子は、幼稚園の卒園式の日、担任の先生に「おわかれのおてがみ」を書いて渡したそうだ。先生は園児からそういう手紙をもらったのは初めてで、感激のあまり大泣きした。 手紙の中身までは知らないが、せいぜい「せんせい、ありがとう。いちねんせいになってもがんばります」ぐらいが関の山だろう。 それだけで先生を感激させるには充分だが、姪っ子がいくら逆立ちしても「花と、花の匂いとは、元々別のものなのです」とは書けない。 こういう小説を、非現実的だ、ありえない、くだらない、と思う人は、最初から読んではいけない。無理して読む必要はない。相性が悪いだけなんだから、どうか「アマゾン」に星1つのレビューなんか書かないでいただきたい。 ちょっと想像してみてほしい。 たとえば麗子が20代や30代の女性で、とくに文学に興味はないが、九鬼の暗い色気に心ひかれたとしたら、あとはもうHなことをするか、九鬼に冷たくされて泣くぐらいのものだ。 文学を理屈でわかろうとする若い男だったとしたら、九鬼に議論でもふっかけて、あとは鼻であしらわれて終わりだ。 麗子は百合や梔子(くちなし)や薔薇のような甘い匂いで男を引き寄せることなく、ただ九鬼の心をわかり、かといって何の手助けもできず、せつない気持ちを抱えたまま、九鬼と手をつないだだけで哀しい幸せに浸る。 久世光彦さんの魂が、だれかの身体を借りて芥川への想いを語るには、5歳の麗子でなければならないのだ。 そう考えたら久世さんがもうこの世にはいらっしゃらないことを思い出して、久世さんの小説やエッセイが大好きな私は、なんだかとても悲しくなった。 久世光彦【蕭々館日録】(しょうしょうかんにちろく) 中央公論新社 2310円

2006年5月26日・27日放送のフジテレビのドラマ 『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語』の内容は、この本を読めば丸わかりである。 渡辺プロの創業者である故・渡辺晋の生涯を描いた本。 いまの渡辺プロには、青木さやかやネプチューンなどお笑い芸人が多く所属している。 だが渡辺晋社長の時代は、数々の人気歌手を世に送り、テレビ局にも影響力を持つ大プロダクションであった。しかし1980年代に入ってから所属歌手が次々と渡辺プロを去り、またホリプロやサンミュージックといった後発プロダクションの追い上げもあって、しだいに経営が傾いていった。 「なんとしても新しいスターを生み出さなければ!」というピリピリした空気の中、渡辺晋社長は広島から来た吉川晃司という少年に目をつけた。 吉川晃司と渡辺晋社長との絡みは、【ナベプロ帝国の興亡】にはあまり詳しく書かれていない。 以下、ファンの一人として知っていることを書いてみる。 レッスンを受けさせられるのが嫌で嫌でたまらず、「デビューさせろ!」と社長に直訴した、怖いもの知らずの吉川少年。(つまり世間知らずってことだな……。まさに「若さ」とは「バカさ」である。) おそらく社長は吉川少年に若いころの自分を重ねたのではないだろうか。そのへんは想像するしかないが、とにかく渡辺プロの社員に向かって、社長命令がくだされた。 「いま金庫に残っている●億円で、吉川晃司を売り出せ!」このときの金額は1億とも2億とも3億とも言われる。今となっては真実を知る術はない。(2006年5月21日のフジテレビ『ウチくる!?』では、「2億円」と言っていた) そして吉川晃司のデビュー映画として作られたのが『すかんぴんウォーク』である。吉川が東京湾をザバザバ泳ぐオープニングをご記憶のかたも多いのではないだろうか。 社長がイメージしたのは、加山雄三とか石原裕次郎みたいに、歌も映画もこなすような、ちょっと昔のスターだったらしい。 しかし吉川晃司は、他人が作った「枠」にはめられることを嫌った。反骨精神まるだしで、スタジオを駆けまわったり、スーツのままプールに飛びこんだり、ナマ放送中にアン・ルイスと艶かしく絡んでみたり、といった武勇伝を残すのである。 「そんなムチャクチャな人なのに、なんでファンやってるの?」と思われるかもしれない。 目に見える行動は確かにムチャクチャだが、このひとの心根は、まっすぐなのだ。あまりにも「まっすぐ」すぎるからこそ、人と意見が衝突したり、誤解されたりしやすい。ファンでさえ吉川晃司の真意をわからずに離れてしまうことがある。 「では、ぱんどらは吉川晃司の真意を知っているのか? 本やテレビで知ったことがすべて真実だと言い切れるか?」 そう問われると私も「Yes」と断言はできない。でも吉川晃司ファンなら、吉川の言動を良いほうに解釈したっていいじゃないか。美しい誤解があっても、いいじゃないか。 渡辺晋社長が亡くなられた直後、吉川晃司は渡辺プロを去った。経営難だった渡辺プロは体制を一新し、現在に至っている。 ラジオの仕事で仙台に来た吉川晃司がリハーサルをやっているところに、偶然いあわせたことがある。何メートルも離れていないところで、吉川晃司がギターを弾きながら歌っていた。 後光が差していた。 呆然と見つめる私の前で、吉川晃司は歌い終え、周囲にいた数人が拍手をした。 「おい、まだリハーサルだぞー」 そう言って吉川晃司は飄々と舞台裏へ消えた。 このひとは照れ屋さんである。自分が照れているという事実に、照れている。 こんなに心根の愛らしい人をどうやって嫌いになれるかわからない。そもそも私には「心根が愛らしい」という解釈しか思い浮かばない。 私みたいなファンは、吉川晃司にも、あきれられるかもしれないな。
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